SEASON 1 / CASE 009 / 賞金 逮捕 3,000,000 cr ほか
木星に地面はある? CASE 009「木星に立った男」
この記事のもくじ(18項目)
まずは、かんたんな答えから
木星に地面はあるのか、かんたんに言うと
木星に地面はあるのでしょうか。人が降り立てる固い地面は、ありません。
木星の外がわは、ほとんどが水素とヘリウムのガスです。下へ行くほど押される力が強くなり、温度も上がります。ガスは少しずつ、こい液体のようなものへ変わっていきます。
どこかで急に「ここから地面」に変わるわけではないのです。
木星の高さ0メートルは、自然の地面ではありません。人が決めた目じるしにすぎません。探査機は入っていけますが、強い圧力と熱で、やがて動けなくなります。
つまり木星は、地面が見つかっていないのではありません。はじめから、地面という区切りがないのです。
この記事に出てくるナイトジャー号は、STAR WARRANT の物語です。巨大ガス惑星、基準面についての説明は、実際の観測と研究にもとづいています。
木星に、地面はない。
それでも男は、両足で木星に立っていた。
黄色い雲と褐色の雲が、底の見えない渦を作っている。
その上を、直径二百メートルの黒い円盤が漂っていた。
円盤の中央には、銀色の文字が刻まれている。
JOVIAN SURFACE — ZERO
木星地表・基準0
耐圧作業服の男――エリアス・ヴェンは、その文字の上に立ち、カメラへ向かって言った。
「私は木星に立った」
背後では、七千人を乗せた気球都市《ガリレイ・ステップ》が、雲の下へ沈み続けていた。
都市の高度計は、正常を示している。
外部圧力は、すでに六・二気圧。
帰還可能な圧力域を越えるまで、残り四十七分。
そして、エリアスの逮捕賞金は三百万クレジットだった。
先に結論:木星には、人が降り立てる地球のような固い地面はない
木星は主に水素とヘリウムからなる巨大ガス惑星です。雲の下へ降りても、地球の大地のような明確な固体表面には到達しません。深くなるほど大気の圧力と温度が上がり、水素は強く圧縮され、やがて気体と液体を単純に分けにくい高密度の流体へ移っていくと考えられています。[参考1]
そのため、木星の半径、高度、気温などを示す際には、地面ではなく、大気圧が一定になる面を基準にすることがあります。代表的なのが約1bar、地球の海面付近とほぼ同程度の圧力になる層です。NASAも、固体表面のない巨大惑星の温度を比較するとき、地球の海面付近と同程度の圧力になる大気層を基準にしています。[参考2][参考3]
ただし、1barの面は岩の床ではありません。雲と気体の中にある、目に見えない基準の層です。嵐や大気の状態によって形も完全な球面にはなりません。
したがって、普通の意味で「木星の地面に立つ」ことはできません。
では、エリアスが立っていた黒い円盤は何だったのでしょうか。
そして、都市の高度計が正常なのに、なぜ圧力だけが上がり続けていたのでしょうか。
高度0メートル、外圧6.2bar
ナイトジャー号は、木星の雲頂上空で《ヴェスパー》と合流した。
眼下にあるのは、大地ではない。
白、黄、橙、褐色。
何層もの雲が、惑星全体を包む巨大な川のように流れている。
その裂け目から、浮遊都市《ガリレイ・ステップ》の上部塔だけが見えた。
本来なら、都市は約0.8barから1.2barの圧力域を巡航する。
いまは六倍を超える圧力の中へ沈んでいる。
それでも都市が発信する位置情報は、こう表示されていた。
JOVIAN SURFACE ALTITUDE:+12m
STATUS:NOMINAL
「六・二気圧で高度十二メートル。正常」
ジョウが表示を睨んだ。
「木星じゃ、地面の方が追いかけてくるのか」
「追いかけているのは地面じゃない」
ミラが答えた。
「基準の方が書き換えられている」
MICA-13が中央登録を照合する。
「《ガリレイ・ステップ》の公式基準面は、現在十三barに設定されています」
操縦室が静かになった。
レイが聞く。
「以前は」
「1barです。変更時刻は六時間十三分前。承認者は――」
表示が一度消える。
REGISTRAR-0
零号記録官
CASE 008で見つけた権限名だった。
人口を0にする。
質量を0にする。
今度は、惑星の地表を十三気圧の深さへ移した。
都市の自動高度維持装置は、書き換えられた「高度0」を目指し、住民ごと木星の深部へ降りていた。
「記録を変えただけで、都市が沈むのか」
レイの問いに、ジョウが上昇装置の系統図を開いた。
「こいつは地面を見て飛んでない。下にレーダーを撃っても、返ってくる床がないからな」
都市は圧力、温度、重力、電波測位、風速を組み合わせ、自分の深さを判断している。
その中心となる基準が、登録上の「木星地表」だった。
地面のない惑星では、基準値の改ざんが、そのまま航路の改ざんになる。
三百万クレジットの救難信号
《ガリレイ・ステップ》から通信が入った。
映ったのは、短く刈った白髪と、深い皺を持つ男だった。
エリアス・ヴェン、五十八歳。
木星地表監査官。
中央記録局第0保管庫への不法侵入、物理原本の持ち出し、都市制御への妨害で指名手配されている。
「救難契約を提示する」
エリアスが言った。
「住民七千三百十八名。圧力殻の限界まで四十七分。報酬は四十六万」
ハクが通信へ割り込んだ。
「お前一人を引き渡せば三百万だ」
「知っている」
「都市を救ってから逮捕されるつもりか」
「逆だ」
エリアスは背後の制御盤へ手を置いた。
「私を先に逮捕すれば、都市は助からない」
警告音が鳴る。
外圧 6.4bar
浮力余裕 21%
第0保管庫・緊急投棄まで 00:13:00
ミラが顔を上げた。
「緊急投棄?」
エリアスの背後に、十三個の黒い円が表示される。
「木星地表第0保管庫は、一つの建物ではない。十三基の圧力公証体だ」
「CASE 008の公証筒と同じか」
「目的は同じ。消しにくい現実を残す」
十三基は、都市の下部浮力環に固定されている。
それぞれ異なる圧力で変形し、通過した圧力履歴を機械的な傷として記録する。
デジタル高度を改ざんしても、金属が六barで潰れた事実は消せない。
「緊急投棄すれば都市は軽くなる」
ハクが言った。
「証拠は木星の深部へ落ち、二度と回収できない」
エリアスは答えた。
「だから、投棄回路を止めた」
ジョウが低く息を吐いた。
「七千人を乗せたまま?」
「十三分だけだ」
「十三分あれば死ぬには十分だ」
「十三分なければ、全員が最初から存在しなかったことにされる」
通信室の空気が固くなる。
エリアスは住民を犠牲にしたいわけではない。
しかし、証拠を守るために、都市全体へ時間を賭けていた。
レイが言った。
「二択にするな」
「何だと」
「人を救うか、証拠を残すか。その二択を作った奴がいる」
レイは都市への進入航路を表示した。
「両方やる」
木星では「高さ」を何で測るのか
地球では、海面や地面を基準に高度を表せます。
しかし木星には、地球のような固体表面がありません。NASAの解説でも、木星のような惑星では地表から高度を測れないため、圧力を深さや高度の手がかりとして扱うことがあります。[参考3]
圧力は、上にある大気の重さによって生まれます。一般に深く降りるほど、上に積み重なる大気が多くなり、圧力は高くなります。同時に温度も変化し、深部では高温・高圧になります。[参考1]
ただし、圧力だけを見れば正確な幾何学的高度が一意に決まるわけではありません。
- 気温
- 大気の組成
- 嵐による上昇流・下降流
- 緯度による重力や惑星形状の違い
- 観測地点の気象状態
などの影響を受けるからです。
そのため《ガリレイ・ステップ》は、複数の観測を組み合わせて深さを判断する設計でした。
今回の犯人は圧力計を一つ壊したのではありません。
「どの圧力面を高度0と呼ぶか」という、都市全体が共有する定義を書き換えたのです。
雲の下へ入る
ナイトジャー号は木星大気用の耐圧降下殻を展開した。
本船のまま深部へ入ることはできない。
レイ、ミラ、ジョウ、MICA-13の移動端末は、救難艇《キト》へ乗り移った。
ハクの《ヴェスパー》からは、耐圧艇《モス》が分離する。
二艇は、黄色い雲の裂け目へ降下した。
視界は数十メートルしかない。
雲粒が外殻を打ち、風が艇体を横へ押す。
進行方向のはずの下が、数秒ごとに傾く。
「雲の中で上下が分からなくなる理由、知ってるか」
ジョウが操縦桿を握ったまま言う。
「地面が見えないから?」
レイが答える。
「計器を信用できなくなるからだ」
ジョウは笑わなかった。
今回、その計器の基準が敵だった。
外圧が三barを越える。
四bar。
五bar。
艇の外殻が低く鳴った。
音は外の大気を通じているのではない。圧力を受けた構造材の振動が、船内へ伝わっている。
やがて暗い雲の中から、都市の輪郭が現れた。
巨大な環状構造。
上部には居住区、中央には発電塔、下部には十三枚の浮力翼。
かつて白かった外壁は、大気の熱と化学物質で黄褐色に染まっている。
都市全体が、ゆっくり沈んでいた。
あなたなら、どの「高さ」を信用する?
《ガリレイ・ステップ》の中央管制には、互いに矛盾する三つの高度記録が残されていた。
A:公式高度計
高度+12m。都市は正常位置にある。
B:十三基の圧力公証体
六基がすでに変形。都市が少なくとも6bar域を通過したことを示す。
C:軌道中継機からの電波測位
1bar基準面より約64km下方。ただし嵐による電波屈折誤差が大きい。
この深さの基準になるガリレオ・プローブの実測系列では、1barを高度0kmとしたとき、6.4149barは高度-63.708kmでした。[参考7]
どれか一つだけでは、完全な答えにならない。
ミラは三つを重ねた。
A:正常な高度計は、正しい基準を見ていなかった
公式高度計自体は故障していなかった。
現在の圧力6.4barを、改ざんされた基準13barと比較し、「基準面より上にいる」と計算していた。
数字は計算どおりだった。
前提が偽物だった。
B:潰れた金属は、通過した圧力を覚えていた
十三基の公証体には、薄さと形の異なる金属隔膜が入っていた。
1bar、2bar、3barと、規定圧力を越えるたびに対応する隔膜だけが反転する。
電源は不要。
後から数値を書き換えても、反転した金属は元へ戻らない。
六枚が反転している。
都市は確実に6barを越えていた。
C:電波は、都市が基準面より下にいることを示した
軌道中継機との距離、木星の重力場モデル、電波の屈折、都市の慣性航法記録を組み合わせると、《ガリレイ・ステップ》は従来の1bar基準面より約64キロ深い。
誤差はある。
しかし、+12メートルでは絶対にない。
ミラは結論を表示した。
公式地表:13bar――改ざん
従来基準面:1bar
現在位置:6.5bar付近
MICA-13が言う。
「中央登録上、《ガリレイ・ステップ》は地表付近にあります」
レイが聞く。
「お前はどう見る」
十三秒はかからなかった。
「観測上、都市は設計深度を越えて降下中です」
「登録は」
「位置ではなく、命令です」
人口0。
質量0。
今度は高度0。
MICA-13は、同じ数字を同じ意味として受け取らなかった。
木星地表第0保管庫
エリアスは都市最下部の監査区画で待っていた。
ハクが先に銃を向ける。
「エリアス・ヴェン。中央記録局第0保管庫への侵入、証拠持ち出し、都市制御妨害の令状が出ている」
「生け捕りか」
「三百万はな」
エリアスは両手を上げた。
「なら逮捕しろ。ただし、手錠は前にしてくれ。作業が残っている」
ハクは片手だけに拘束具をかけ、もう一方を自分の腕へつないだ。
「逮捕した。逃げるな」
「逃げる地面がない」
監査区画の床下には、十三基の黒い公証体が固定されていた。
CASE 008で回収した慣性公証筒より大きい。
円盤状の外殻に、無数の細い溝が刻まれている。
それぞれが、圧力による変形を記録する機械式の証言装置だった。
エリアスが第一公証体を開く。
内部の金属膜には、二つの足跡が残っていた。
耐圧作業服の靴底。
その下に文字がある。
証人:ELIAS VENN
観測圧力:1.000bar
地点:JOVIAN SURFACE ZERO
「これが、立ったという意味か」
レイが聞く。
「私は岩の上に立ったとは言っていない」
「それなら言葉遊びだ」
ミラが厳しく言う。
エリアスは首を振った。
「違う。木星で住所、航路、所有権を決めるには、全員が共有できる基準が必要だ」
木星地表第0保管庫は、約1barの圧力面を追従して浮く十三基の公証プラットフォームだった。
完全な球面でも、固定された土地でもない。
それでも、木星圏の地図、航空路、採掘権、浮遊都市の高度を比較するための原点として使われていた。
エリアスは三年前、その公証プラットフォームの上で1barを測定し、自分の体重で金属膜へ足跡を刻んだ。
「地面ではない」
エリアスは言った。
「だが、地面のない惑星で、どこからを上と下と呼ぶか。その約束を物理的に残す場所だった」
「なぜ都市へ取り付けた」
「零号記録官が、第0保管庫を廃止しようとしたからだ」
十三基は1bar面を巡回しながら、中央登録の変更履歴を保存していた。
人口、時刻、質量、圧力。
零号記録官が書き換えた基準の原本も含まれている。
エリアスは保管庫を守るため、《ガリレイ・ステップ》の浮力環へ一時退避させた。
その直後、都市の地表基準が13barに書き換えられた。
保管庫ごと深部へ沈め、圧力で潰すためだった。
地面は、上にある
都市の外圧が7barを越えた。
公証体の第七隔膜が、低い音とともに反転する。
ベコン。
床がわずかに震えた。
外圧 7.03bar
都市上昇余力 14%
設計限界まで 00:31:20
ジョウが浮力系統を確認する。
《ガリレイ・ステップ》は、木星大気を取り込み、内部熱で温めた軽い水素主体のガスと、格子状の低密度浮力セルを組み合わせて高度を維持する作中設計だった。
実際のNASA研究でも、巨大惑星の大気中を長期間飛行するロボットや、周囲の大気を加熱して浮力を得る概念が検討されています。ただし水素主体の大気では密度差が小さく、巨大な浮力構造や追加の空力制御が必要になる難しい技術です。[参考5][参考6]
ただし、外圧が上がっただけで浮力が必ず落ちるわけではない。深部では、押しのける周囲の大気そのものも高密度になるからだ。浮力の大きさは排除する大気の体積と密度で決まり、そこから内部ガスや構造物の重さを差し引いた正味の浮力余裕には、内外の密度差が効く。[参考6]
《ガリレイ・ステップ》で問題になったのは、設計圧力を越えてセルが変形し、安全弁から加熱ガスを逃がし続けたうえ、加熱系も外気との温度差を維持できなくなったことだった。
セルが変形し、加熱ガスが逃げる。
外気との温度差が縮む。
使える体積と密度差が減る。
浮力余裕が落ちる。
さらに沈む。
「落下じゃない」
ジョウが言った。
「圧縮されながら、沈み方が加速してる」
主加熱炉を最大にすれば、浮力セルを膨らませられる。
しかし、六時間かけて圧縮されたセルへ一気に高温ガスを入れれば、弱った膜が破裂する。
十三段階に分けて、外圧の低下に合わせて膨張させる必要がある。
エリアスが公証体を示した。
「そのための圧力弁がある」
十三基の公証体は、測定器であると同時に、1bar面へ自力で戻るための浮力調整装置だった。
規定圧力を通過するたび、対応する弁が開き、浮力ガスを次の区画へ移す。
「保管庫を都市から切り離せば、十三基は1bar面へ上昇する」
ハクが言う。
「都市も軽くなる。切れ」
「通常の緊急投棄回路を使えば、公証体は下向きに排出される」
エリアスが答える。
「証拠廃棄用の経路に書き換えられている」
「上へ放せばいい」
ジョウが系統図を拡大した。
「接続部を反転して、都市の浮力環へ圧力弁をつなぐ。十三基を都市の外付け浮力翼として開けば、公証体と都市を一緒に上げられる」
ミラが計算する。
「静止大気では足りない。最低でも毎秒百二十メートル以上の上昇流が必要」
木星の雲は静止していない。
強い風、乱流、上昇流、下降流がある。
NASAが検討したWindBot構想も、巨大惑星の風や乱流を利用して長期間飛行するロボットを想定しています。[参考5]
「上昇流を探す」
レイが言った。
ミラは首を振った。
「見つけるだけでは遅い。都市をそこへ移動させる推力がない」
ハクが拘束具の鎖を引いた。
エリアスが一歩よろめく。
「三百万クレジットの男なら、何か隠しているだろ」
エリアスは都市の上層気象図を開いた。
雲の中を一本の細い線が上へ伸びていた。
「十三分後、この都市の西四十キロを上昇柱が通る」
「予報か」
「記録だ」
十三基の公証体は、三年間、1bar面を巡りながら圧力波と風を記録していた。
木星の大気には、一定周期で再び現れる長寿命の波動がある。
完全に同じ場所ではない。
しかし、エリアスは十三基の履歴から、上昇柱が通る確率の高い経路を予測していた。
「だから十三分、投棄を止めたのか」
レイが聞く。
「救難艇が来れば、都市を西へ向けられる」
「来なければ」
「私が間違っていたことになる」
ジョウがエリアスの胸を押した。
「七千人で仮説を試すな」
「仮説じゃない」
「100%じゃないなら、現場じゃ仮説だ」
二人の間に、ハクの拘束鎖が張る。
レイが言った。
「当てるんじゃない。外れたときの道も作る」
十三枚の翼
作戦は三つに分かれた。
ミラとMICA-13は、都市周囲に残る気象観測機から、圧力変化と風向を集める。
ジョウとエリアスは、十三基の公証体を浮力環へつなぎ直す。
レイとハクは耐圧艇二隻で都市の左右へつき、推進力ではなく姿勢と進行方向を制御する。
都市を持ち上げるのは、船ではない。
木星の風と、都市自身の浮力だ。
「逮捕した男に工具を持たせる賞金稼ぎは初めて見た」
エリアスが言う。
「逃げたら腕ごと回収する」
「地面があれば逃げられたんだが」
「その冗談、三百万の価値はない」
ハクは拘束具を外さなかった。
二人は鎖でつながったまま、第一公証体の固定架へ入った。
ジョウが外殻パネルを開く。
高圧の大気が隔壁の向こうで唸っている。
十三基を一度に展開すれば、外圧差で接続部が破壊される。
一基ずつ、現在圧力に合う弁を開く必要がある。
第七公証体の隔膜が反転済み。
第八は、まだ平らだ。
「七barを通過した。次は八barまでに上向きに変える」
ジョウが言った。
「八barへ行ったら」
レイの通信。
「行かせない」
第一固定具が外れた。
黒い円盤が都市の横へ滑り出す。
折り畳まれていた膜が開き、巨大な翼になる。
第二、第三。
木星の風を受け、都市が軋む。
外ではレイの《キト》とハクの《モス》が左右の姿勢索に接続した。
二艇の推進器だけで七千人の都市を引くことはできない。
だが、巨大な翼が受ける風の向きを数度変えることはできる。
ミラが叫ぶ。
「西側から圧力低下。上昇柱が近い」
都市の居住区では、住民が耐圧室へ移動している。
窓の外を、褐色の雲が上へ流れ始めた。
下へ沈んでいる都市から見れば、雲が上へ流れているのか、自分たちが下へ落ちているのか分からない。
MICA-13が基準を更新する。
上方向:圧力低下方向
地表方向:1bar基準面方向
「地面は下じゃない」
ミラが呟いた。
「いまは、上にある」
第八隔膜
外圧が7.8barへ達した。
都市の下部から、金属の悲鳴が伝わる。
第八公証体の隔膜が反転しかけている。
完全に反転すれば、第八弁が自動で閉じる。
閉じれば、都市の右側四枚の翼へ浮力ガスが届かない。
「手動で保持する」
ジョウが工具を差し込んだ。
エリアスが止める。
「反転中の隔膜に触れるな。指がなくなる」
「他に手は」
「私が内側へ入る」
公証体の整備空洞は、一人分しかない。
内部圧力を現在の外圧に合わせ、弁を直接固定する。
一度入れば、上昇が始まるまで出られない。
圧力が下がると、今度は内部の高圧ガスが整備扉を押さえつける。
「お前は逮捕対象だ」
ハクが言った。
「だから逃げない」
「死なれたら賞金が減る」
「生死不問ではないのか」
「生け捕り三百万、死体は十二万だ」
初めてエリアスが笑った。
「ずいぶん正直な心配だ」
彼は整備空洞へ入った。
ハクの拘束具は外せない。
鎖を切れば、逮捕の証明も切れる。
ハクは数秒迷い、拘束具の電子鍵を解除した。
「三百万を貸す」
「返せるか分からん」
「利息は高い」
扉が閉じる。
エリアスは内側から第八弁を固定した。
圧力の崖
「上昇柱、接触まで二十秒」
ミラの声。
レイとハクは二艇の機首を西へ向ける。
十三枚の翼が一斉に傾いた。
最初の風は横から来た。
都市が大きく回転する。
居住環の一部で固定具が破断し、家具や機材が壁へ投げ出された。
MICA-13が姿勢補正を指示する。
「左翼三度戻してください。右翼一・二度増加」
「数字は信用していいのか」
ジョウが叫ぶ。
「これは中央登録ではありません。現在観測です」
次の瞬間、都市全体が持ち上がった。
床が足裏を押す。
浮遊都市の住民が、久しぶりに「上」を身体で感じた。
圧力表示が止まる。
7.86bar。
7.85。
7.82。
上昇が始まった。
しかし、圧力が下がると浮力セル内部のガスが膨張する。
速すぎれば膜が破裂する。
第七弁を閉じ、第六を開く。
第六から第五へ。
十三基の公証体が、通過圧力に合わせて都市の呼吸を調整する。
「7bar通過」
「第七翼、排気」
「6bar」
「第六弁開放」
黒い翼が一枚ずつ形を変える。
都市は木星の雲を登っていく。
上昇流の中心から外れれば、再び沈む。
二艇は風に叩かれながら、都市の姿勢を保つ。
ハクの《モス》へ警告が出た。
右舷耐圧殻 亀裂
許容差圧 残り18%
「離れろ」
レイが言う。
「都市が回る」
「お前の艇が潰れる」
「修理費を払うのは誰だ」
「俺じゃない」
「なら最後まで使う」
《モス》は索を離さなかった。
5bar。
4bar。
温度と圧力が下がる。
都市の外壁に付着した雲粒が凍り、白い筋となって流れた。
3bar。
上昇柱が弱くなる。
「あと二十七キロ」
ミラが言う。
「ここからは浮力だけでは足りない」
都市の下には、まだ十三基のうち三基が展開していない。
第十一、第十二、第十三。
それらは証言の中核であり、通常なら開けば内部記録が外気へ露出する。
エリアスの声が整備空洞から届く。
「開け」
「原本が傷む」
ミラが答える。
「原本は、人が生きて読めるから証拠になる」
エリアスは言った。
「開けろ」
レイが命じる。
十三基すべてが翼になった。
第十三公証体の表面から、細かな金属片が風へ散る。
記録の一部が失われる。
それでも最後の浮力が生まれた。
2bar。
1.5bar。
木星の雲が薄くなり、上空の光が戻る。
そして、1.02bar。
MICA-13が新しい位置を宣言した。
観測圧力:1.02bar
従来基準面との差:+0.4km相当
都市降下:停止
《ガリレイ・ステップ》は、木星の「地表」へ帰ってきた。
もちろん、足元に岩はない。
巨大な惑星の大気中、圧力で定めた目に見えない面へ戻っただけだった。
それでも七千三百十八人は、生きていた。
エリアスの証言は真実だったのか
救助後、ハクはエリアスへ再び拘束具を付けた。
「今度は逃がさない」
「さっき外したのは誰だ」
「救難作業上の一時解除だ」
「賞金稼ぎの規則は便利だな」
ミラは第一公証体の足跡を調べた。
圧力膜の変形、宇宙服の質量、観測時刻、1bar環境。
記録は一貫している。
エリアスは三年前、木星の自然な固体表面へ立ったわけではない。
人間が定義した1bar基準面を追従する公証プラットフォームへ立ち、その場所が当時の木星地表基準であることを物理的に証明した。
「科学的には、木星の地面に立ったとは言えない」
ミラが言った。
「そうだ」
「でも、木星地表監査官として、地表基準上に立ったという証言は正しい」
「そうだ」
「紛らわしい」
「だから誰も忘れない」
エリアスは、第十三公証体の傷を見た。
完全な原本ではなくなった。
自分が三年間守った記録の一部が、都市を救うために失われた。
レイが言う。
「後悔してるか」
「している」
「開けなければ全員死んだ」
「正しい選択でも、失った物は戻らない」
それはレイにも分かる言葉だった。
第九証言――圧力
十三基の公証体を並べると、反転した隔膜が一つの模様を作った。
1barから7barまで。
都市が沈み、再び戻った圧力履歴。
第十三公証体の深部から、機械式の記録板が現れる。
WITNESS 09:PRESSURE
地表を定義し直しても、通過した圧力は消えない。
高度0は場所ではない。誰かが選んだ基準である。
記録板には、零号記録官の権限履歴が残されていた。
- 施設人口基準
- 船舶質量基準
- 標準時刻変換
- 惑星地表基準
- 通信到達判定
ミラが最後の項目を拡大する。
「通信到達判定」
MICA-13が関連する命令先を検索する。
一件だけ、現在も活動中の中継局がある。
LUNAR FAR-SIDE RELAY K-0
月裏面第0中継局
稼働状態:廃止済み
最終通信:13秒前
ジョウが画面を見直した。
「廃止済みなのに、十三秒前?」
その瞬間、ナイトジャー号へ直接通信が入った。
発信元は、月の裏側。
地球からも、木星からも、直線では見通せない位置にある。
本来なら中継が必要だ。
しかし受信記録には、こう表示されていた。
RELAY COUNT:0
中継回数:0
MICA-13が言う。
「この通信は、中継を経由していないことになっています」
レイは、木星の事件で何度も見た数字を見つめた。
0。
存在しない人口。
存在しない質量。
存在しない地表。
今度は、存在しない中継だった。
通信の音声が再生される。
十三秒の雑音。
その後、女性の声が一言だけ告げた。
「月の裏側を、表から探さないで」
エナ・ソレルの声だった。
木星へ降りると何が起きる?
木星へ降下する探査機は、地面へ着陸するのではなく、大気の中を深く入っていきます。
NASAのガリレオ大気圏プローブは1995年、木星の大気へ突入し、約58分間データを送りました。最終的には地球海面の約23倍から24倍に相当する圧力域まで観測し、高温によって通信が途絶えました。[参考4][参考7]
深く降りるほど、一般に圧力と温度は上がります。さらに深部では水素が圧縮され、液体状、そして非常に高圧では電気を通す金属水素の状態になると考えられています。[参考1]
宇宙船が「雲を抜ければ地面へ着く」という構造ではありません。耐圧、耐熱、通信、風への対応が限界を迎え、いずれ探査機は機能できなくなります。
改ざんされた地表基準が確定したこと
区分表示:ナイトジャー号、大気浮遊都市《ガリレイ・ステップ》、木星地表監査官エリアス・ヴェン、三百万クレジットの逮捕令状、十三基の圧力公証体はSTAR WARRANTの物語です。木星に人が降り立てる固い地表がないこと、深く入るほど圧力と温度が増すこと、高度0が自然の地面ではなく1気圧面など人が選んだ基準であることは現実の惑星科学であり、作中の都市と地表基準の改ざんとは区分します。
REAL SCIENCE 現実の科学
- 木星には、人が着陸できる地球型の固い表面がない
- 木星は主に水素とヘリウムからなる
- 深く降りるほど、一般に圧力と温度が高くなる
- ガス惑星では、1barなど一定圧力の層を半径・高度・温度の基準として使うことがある
- 圧力面は岩の床ではなく、大気中の目に見えない基準層
- 圧力だけで幾何学的高度を完全には決められず、温度、組成、重力、電波測位なども必要
- 浮力は、物体が周囲の流体から受ける上向きの力
- 浮力は周囲流体の密度と排除体積で決まり、正味の浮力余裕には内部ガスとの密度差も効くため、外圧上昇だけで一律に低下するとは限らない
- 柔軟構造の変形、ガス排出、温度差の喪失で有効体積や密度差が失われれば、浮力余裕は低下し得る
- 巨大惑星の大気を長期間飛ぶロボットや気球型探査機は研究例があるが、実現には大きな技術課題がある
STORY 作中だけの設定
- 浮遊都市《ガリレイ・ステップ》
- 木星地表監査官エリアス・ヴェン
- 木星地表第0保管庫
- 十三基の圧力公証体
- 1bar面を追従する公証プラットフォーム
- 圧力公証体を浮力翼として使う機構
- 零号記録官による地表基準の変更
- 十三証言計画の第九証言
この事件で確定した作中の事実
- 《ガリレイ・ステップ》の地表基準は1barから13barへ改ざんされた
- 自動高度維持装置は、改ざんされた基準を目指して都市を降下させた
- 木星地表第0保管庫は固定建造物ではなく、1bar圧力面を追従する十三基の公証体
- エリアスの「木星に立った」は、固体表面ではなく、当時の1bar地表基準上に立ったという証言
- エリアスは保管庫投棄を十三分停止し、住民と証拠の両方を救う機会を作った
- 第九証言
PRESSUREを回収した - 零号記録官は通信到達判定にも権限を持つ
- 廃止済みの月裏面第0中継局K-0が活動している
次の事件へ残った作中の問い
- 零号記録官が個人、役職、共有資格のどれなのか
- エナが現在も生きて月裏面から通信しているのか
- 中継回数0で月裏面から通信が届いた仕組み
- 月裏面第0中継局K-0を誰が稼働させているのか
- 十三証言計画の残り四件
- エリアスが中央記録局内部で、どこまで零号記録官へ接近していたのか
HYPOTHESIS 木星深部に残る科学的な未確定事項
- Junoの重力・磁場観測は、木星の核が小さな固体の塊ではなく、重元素が水素へ広がった「希薄な核」である可能性を示しています。ただし、重元素がどこまで分布し、どの形成史が現在の構造を作ったかは研究途上です。[参考8]
核の構造が未確定でも、人が立てる地球型の固体表面がないという結論は変わりません。
木星の地面について、よくある疑問
木星の雲の下には何がある?
さらに深い大気と、高温・高圧の水素主体の流体が続くと考えられています。地球の海面のように、気体から液体へはっきり境界が見えるとは限りません。より深部では金属水素の層があると推定されています。[参考1]
木星へ宇宙船で着陸できる?
地球のような着陸面がないため、通常の意味での着陸はできません。降下すれば、強い風、上昇する圧力と温度にさらされ、いずれ機体が機能できなくなります。ガリレオの大気圏プローブも、大気中を観測した後に通信を失いました。[参考4][参考7]
木星の表面温度は何度?
固体表面がないため、どの圧力層の温度かを示す必要があります。惑星比較では、地球の海面付近と同程度の圧力になる層の温度を使うことがあります。NASAの比較値では、木星はその基準でおよそマイナス110度です。[参考2]
木星の1bar面は、いつも同じ高さ?
基準として定義できますが、実際の大気は嵐や風、温度差を持つため、完全に平らで固定された面ではありません。精密な位置を求めるには、圧力以外の観測も組み合わせます。
木星の中心には固体の核がある?
木星内部には重元素を多く含む希薄な核がある可能性が示されていますが、分布や形成過程には未確定な部分があります。その構造は、地上から歩いて到達できる「地面」とは異なります。[参考8]
捜査後記――逮捕された地表監査官
《ガリレイ・ステップ》は1bar付近の巡航帯へ復帰した。
七千三百十八人の生存を確認。
圧力殻の損傷区画は二十七。
重傷者十一名。
死者は0名だった。
MICA-13は最後の数字を二度確認した。
今度の0は、消去された人数ではない。
観測した結果だ。
ハクはエリアスを《ヴェスパー》へ連行する準備をしていた。
レイが聞く。
「依頼人へ渡すのか」
「零号記録官が出した令状だ。渡せば証人が消える」
「賞金は」
「三百万」
「どうする」
ハクはエリアスの拘束具を確認した。
「逮捕はした」
「引き渡しは」
「依頼人の身元確認が終わっていない」
エリアスが笑う。
「いつ終わる」
「零号記録官の顔が分かったらだ」
三百万クレジットの賞金首は、賞金稼ぎの船で保護されることになった。
もちろんハクは、保護とは呼ばなかった。
次の賞金事件
月の裏側とは直接通信できない? CASE 010「沈黙しない中継局」
月の裏側は、地球から直接見通せない。
電波は月を通り抜けられないため、通常は月周回衛星や中継局が必要になる。
それなのに、十三年前に廃止された月裏面第0中継局K-0から、ナイトジャー号へ直接通信が届いた。
記録上の中継回数は0。
発信者はエナ・ソレル。
そしてK-0のアンテナは、地球でも木星でもなく、月の地面へ向けられていた。
「月の裏側を、表から探さないで」
次の第十証言は、沈黙しているはずの中継局に隠されている。
SEASON 1 EVIDENCE
この捜査で確定したこと
- WITNESS 09:PRESSURE
- 1bar基準面を追従する十三基の浮遊公証体
- 地表の定義を変えても消えない通過圧力と隔膜反転記録
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参考資料
- NASA Science「Jupiter Facts」
- NASA Science「Temperatures Across Our Solar System」
- NASA Goddard「How a NASA Scientist Looks in the Depths of the Great Red Spot to Find Water on Jupiter」
- NASA Science「Galileo」
- NASA/JPL-Caltech「Could ‘Windbots’ Someday Explore the Skies of Jupiter?」
- NASA NIAC「WindBots: A Concept for Persistent In-Situ Science Explorers for Gas Giants」
- NASA Planetary Data System「Galileo Probe Atmospheric Structure Instrument Data Set」
- NASA Science「Juno」