SEASON 1 / CASE 010 / 賞金 施設処分 6,400,000 cr ほか
月の裏側とは直接通信できない? CASE 010「沈黙しない中継局」
この記事のもくじ(23項目)
まずは、かんたんな答えから
月の裏側と通信できないのはなぜか、かんたんに言うと
月の裏側の人と、地球は、すぐに はなせません。あいだに、月が あるからです。
電波も レーザーも、まっすぐにしか すすめません。月の かげに かくれた人には、まわりこんで とどきません。
そこで、中つぎを します。つなぎ役を たのむのです。月のまわりを まわる衛星が、いちど うけとります。そこから、地球へ おくります。
きろくに「中つぎ 0回」と 書いてあることが あります。でも、電波が 近道を したのでは ありません。なにを 中つぎと 数えるか、という きめ方の ちがいです。
月の裏側との通信は、できない わけでは ありません。かならず、だれかを あいだに はさむのです。
ナイトジャー号は、STAR WARRANT の作りばなしです。月が電波を さえぎる しくみは、ほんとうの科学です。
やさしい おはなし
月のうらがわから、なぜ声が とどいたの?
月の裏側に、ふるい 中つぎ局が ありました。十三年前に、しめられた局です。
そこから、声が とどきました。「月のうらがわを、おもてから さがさないで」エナの声でした。
「へんだな」ミラが、きろくを 見ました。「中つぎ 0回、と書いてある。でも、うらがわから 地球へは、まっすぐ とどかない」
三人は、局に 行きました。大きな アンテナが ありました。でも、空を 向いていません。下の 地面を 向いています。
「アンテナが、下を 向いてるぞ」ジョウが 言いました。「空に 電波を 送る気が ないな」
なぞ: 月に かくれた局から、どうやって 声が とどいた?
てがかり1: アンテナは、空ではなく 地面を 向いていた。
てがかり2: 声は、まっすぐより、すこし おくれた。
てがかり3: アンテナの下に、トンネルが あった。
こたえは、この下です。
ミカが、地図を 出しました。「補足します。月の中に、長い ケーブルが あります」
声は、月を つきぬけたのでは ありません。地面の下の ケーブルを 通りました。月の おもてがわまで 行ったのです。そこから、地球へ とんだのです。
「中つぎ 0回は、うそじゃない」ミラが 言いました。「ケーブルを、中つぎと 数えなかっただけ」
レイは、きろくを 見つめました。「だれが、数え方を きめたんだ」
ナイトジャー号と中つぎ局は、おはなしの中のものです。ミカは、船のAI「MICA-13」のことです。
十三年前に廃止された中継局が、十三秒前に通信していた。
発信地点は、地球から見えない月の裏側。
通信記録に残された中継回数は、0。
そして、月面の巨大アンテナは地球でも宇宙でもなく、真下の岩盤へ向けられていた。
スピーカーから聞こえたのは、三年前に死亡したことにされたエナ・ソレルの声だった。
「月の裏側を、表から探さないで」
その直後、局の破壊賞金が公開された。
残り時間は、十三分。
先に結論:月の裏側から地球へ、普通の電波を直接送ることはできない
月の裏側は、地球に背を向けている半球です。
地球と直接通信するには、送信アンテナと地球側アンテナの間に、電波を遮るものがない「見通し線」が必要です。月の裏側では、月そのものが巨大な遮蔽物になるため、一般的な宇宙通信用の電波やレーザーを地球へ直接届けることはできません。[参考1][参考10]
そのため現実の月裏面探査では、月裏面と地球の両方を見通せる中継衛星が使われます。中国の嫦娥4号は「鵲橋」、嫦娥6号は「鵲橋2号」の支援を受けました。NASAやESAも、地球が直接見えない月面活動を支える月周回通信中継網を検討・整備しています。[参考1][参考5][参考6][参考7]
今回の信号も、電波が月を貫通したわけではありません。
K-0のアンテナから月面下の光回線へ入り、月の表側にある別の開口部まで物理的なケーブルを通り、そこから地球圏へ送信されていました。
つまり、
通信記録上の「中継0」は、物理的な経路が0だったという意味ではない。
事件の核心は、誰が「中継」と数えるものを決めていたのかでした。
十三年前の局から届いた、十三秒前の声
木星から回収した第九証言の末尾に、見慣れない通信先が表示されていた。
LUNAR FAR-SIDE RELAY K-0
月裏面第0中継局。
登録上は十三年前に廃止され、電源も回線も撤去されている。
しかしMICA-13の画面では、最終通信時刻が更新され続けていた。
LAST TRANSMISSION:13 SEC AGO
RELAY HOPS:0
ORIGIN:K-0
十三秒が経過するたびに、表示は再び十三秒前へ戻る。
「時計が止まってるんじゃないのか」
ジョウが端末の側面を軽く叩いた。
「止まっていません」
MICA-13が即答する。
「現在時刻との差を、送信側が十三秒に保つよう更新しています」
「誰かが今も送っている?」
ミラは音声の先頭へ戻した。
ノイズの向こうから、女性の声が聞こえる。
「レイ。これを聞いているなら、九つ目まで残ったのね」
「月の裏側を、表から探さないで」
レイは一度も瞬きをしなかった。
ジョウが、何も言わず音量を下げる。
「録音の可能性は」
レイが訊いた。
「否定できません」
ミラが答える。
「三年前の音声を、現在の時刻情報と一緒に再生しているだけかもしれない」
「声紋は?」
「エナ本人と99.97パーセント一致。ただし声紋は生存証明にならない」
そのとき賞金掲示板が割り込んだ。
緊急施設処分契約
対象:月裏面第0中継局K-0
条件:送受信機能の完全破壊
報酬:6,400,000クレジット
契約発行者:中央通信保全局
続いて、もう一件。
生存確保令状
対象:エナ・ソレル
条件:生体のまま引き渡し
報酬:8,600,000クレジット
通信画面の端に、ハク・ヴェイルの顔が現れた。
「今度は船じゃなく、相棒に値札が付いたな」
「受けたのか」
「二つとも保留中だ。合わせれば、新しい船が買える」
ハクは薄く笑った。
「だから急げ。俺より金に困っている連中も、同じ掲示板を見ている」
ナイトジャー号は、月圏航路へ船首を向けた。
月の裏側は「暗い側」ではない
月裏面へ向かう途中、ジョウが窓の外を見た。
半分ほどの月面が太陽に照らされている。
「裏側なのに明るいな」
「月の裏側と、夜側は別よ」
ミラが軌道図を開く。
月は地球にほぼ同じ面を向けながら公転している。そのため地球から見えない半球を「裏側」と呼ぶが、裏側にも昼と夜がある。[参考9]
「暗黒面、という意味じゃない。地球から直接見えない側」
「だから地球のアンテナも見えない」
「そう。電波は便利だけど、都合よく月を回り込んではくれない」
宇宙通信用の高い周波数では、山やクレーターの縁でも通信が遮られる。月全体が間に入れば、直接回線は成立しない。
ナイトジャー号が月の縁を越えた瞬間、地球向けの直接通信表示が消えた。
EARTH LINE OF SIGHT:LOST
操縦室が、それまでより静かになった。
地球は、すぐ近くにある。
光なら約1.3秒で届く距離だ。[参考9]
それでも、月の岩が間にあるだけで声は届かない。
「これが正常です」
MICA-13が言った。
「K-0の通信記録だけが、正常ではありません」
地球のない空
ダイダロス・クレーターの底には、巨大な白い皿が倒れていた。
直径百八十メートル。
K-0の主アンテナだ。
ただし皿は空を向いていない。
中心軸は、月面に対して下向き七度。
受信機の先には黒い縦穴があり、アンテナはその穴へ光を投げ込むように固定されている。
「中継局が、地下へ送信している」
ジョウが着陸脚を固定した。
「地球は上だぞ」
「この場所からは、どちらにしても見えない」
ミラはアンテナの向きと月面地図を重ねた。
「でも、下に向ける理由はある」
「埋めたかったとか?」
「送信先が下にあるならね」
ナイトジャー号の外部受信機へ、細い光パルスが入った。
電波ではない。
近赤外レーザーだった。現実の宇宙光通信も、赤外線の細い光束を送受信機の間で正確に指向します。[参考10]
発信源はアンテナの焦点ではなく、その下の縦穴。
MICA-13が新しい警告を表示する。
FACILITY PURGE ACCEPTED
PHYSICAL SEVERANCE BEGINS IN 00:13:00
十三分後、K-0の物理回線が切断される。
レイは立ち上がった。
「入る」
「声の場所へ?」
ミラが訊いた。
「エナがいる可能性がある」
「聞こえた場所と、話した場所が同じとは限らない」
レイの手が止まった。
ミラは音声波形を開く。
「それが今回の科学よ」
あなたなら、どの記録から通信経路を探す?
K-0には、三つの矛盾が残されていた。
A:直通にしては長すぎる通信遅延
地球と月の距離による遅延に加え、信号には約0.05秒の余分な遅れがあった。
短いように見える。
しかし光にとって0.05秒は、真空なら約15,000キロメートルに相当する。
K-0と地球の間を直線で結んだだけでは説明できない距離だった。
B:十三色に分かれた光パルス
同時に送られたはずの光が、波長ごとにごくわずかにずれて到着している。
自由空間を通るレーザーより、長い光ファイバーを通った信号に近い特徴だった。
さらに主信号の後ろには、約1ミリ秒間隔の小さな反射が十三個並んでいた。
C:月面下方を向くアンテナ
アンテナの中心線は地球にも中継衛星にも向いていない。
向いているのは、クレーター底の縦穴と、月の表側方向へ続く古い地下工事区画だった。
どれを先に調べても、同じ結論へ近づく。
K-0は、空にある中継衛星ではなく、月の内部へ通信を流していた。
「中継0」は「経路0」ではない
レイ、ミラ、ジョウ、MICA-13は縦穴へ降りた。
穴の底から、銀色の光ケーブルが二本伸びている。
壁には古い施設名が刻まれていた。
SELENE CONTINUOUS LINE
K-0 FAR APERTURE
「連続線……」
ミラが表面の識別を読む。
「K-0は一つの建物じゃない」
地下図面が復元された。
K-0は、月裏面の受信端、月面下を走る光幹線、月表側の送信端をまとめた一つの通信施設だった。
総延長は6,842キロメートル。
途中には十三基の増幅・校正室がある。
「十三回、中継してるじゃないか」
ジョウが言った。
「ネットワーク上は違う」
ミラは通信規約を表示した。
十三基の装置は、信号の宛先を読まず、経路も選ばない。ただ弱くなった光を整え、同じ一本の線へ戻す。
中央通信規約では、宛先判断を行う装置だけが「中継局」として数えられていた。
地下の増幅室も、表側の送信開口部も、すべてK-0という一施設の部品として登録されている。
だから記録上は、
発信元:K-0
中継回数:0
になる。
「嘘ではない」
MICA-13が言った。
一秒置いて、続ける。
「しかし、物理的な経路を説明してもいません」
レイは暗いケーブルの先を見た。
「零号記録官が使うやり方だ」
人口0。
質量0。
高度0。
そして中継0。
存在しないという意味ではない。
誰かが、何を数えるか決めた結果だった。
十三個の小さな遅れ
最初の校正室へ着いた瞬間、天井の赤い灯が点いた。
SEVERANCE 01/13
遠くで振動が走った。
表側に近い第一増幅室が、自動爆破された。
回線の一部が切れ、エナの声にノイズが混じる。
「……九つ……残った……なら……」
「破壊は表側から順番だ」
ジョウが配線図を見る。
「十三室を全部落として、経路そのものを消す気だ」
ミラは十三個の微小反射を拡大した。
各校正室には、決まった長さの試験線が巻かれている。信号の一部がそこへ入り、主信号から少し遅れて戻る。
十三個の反射間隔は、各室固有の署名だった。
一つ目が消えた。
次に二つ目が消えるまで、残り五十八秒。
「この反射を追えば、まだ生きている区画が分かる」
「声は?」
レイが訊く。
「声の強い方向は当てにならない。増幅器があるから」
「なら何を追う」
「遅れ」
ミラは十三本の光路を重ねた。
「信号が通った距離は、音量みたいに書き換えにくい」
レイは先頭に立つのをやめた。
「案内してくれ」
ミラが一瞬だけ彼を見る。
そして左側の通路を指した。
「声は右から聞こえる。でも経路は左」
四人は、声から遠ざかる方向へ走った。
声の方へ行くと、声から遠ざかる
地下通路は十三の分岐に分かれていた。
各分岐には、同じ形の光ケーブルが三本ずつ伸びている。
一本は本線。
一本は保守用の戻り線。
もう一本は、侵入者を行き止まりへ誘導する偽線だった。
K-0の内部では、無線が岩壁に遮られた。
四人の通信は、ヘルメット同士が見通せる範囲だけを結ぶ細いレーザーに切り替わる。
曲がり角を一つ越えるだけで、仲間の声が切れる。
ジョウは小型反射鏡を壁に固定した。
一枚、二枚、三枚。
後ろのレーザーを鏡で曲げ、次の角へ送る。
「光は勝手には曲がらない」
ジョウが四枚目を調整する。
「だから、俺たちが曲げる」
二つ目の爆破。
三つ目。
校正反射が一つずつ消える。
MICA-13は残った遅延から、本線の長さを再計算する。
「右分岐は、表示上は最短です」
「実際は?」
「反射が十三・六ミリ秒不足しています。偽線です」
左へ進む。
次の区画では、ケーブルが三百メートルの空洞を渡っていた。
天井の崩落で、歩廊は消えている。
向こう岸に、次の校正室の青い光が見える。
地球なら通信はできる距離だ。
しかし、岩壁の突起がレーザーを遮っていた。
ジョウが射出索へ反射鏡を取り付ける。
「鏡だけ先に向こうへ送る」
「ずれたら?」
「俺たちの声が谷底へ落ちる」
索が飛ぶ。
鏡が回転しながら向こう岸へ突き刺さる。
ミラのレーザーが鏡に当たり、反射した光が青い受光部へ入った。
通信がつながる。
その一瞬だけ、エナの声が鮮明になった。
「レイ。声がする方へ来ないで」
レイの足が止まる。
それは三年前に録音された警告ではなかった。
今の状況を見ている言葉だった。
録音では答えられない質問
「生中継か確認する」
MICA-13は、現在時刻の雑音から予測不能な乱数を生成した。
CHALLENGE:7D-19-C0-44-…
音声回線へ送る。
月裏面から表側の送信端へ地下回線を通り、公開網を経由して戻る。
往復には、月までの光行時間だけでなく、地下幹線と十三校正室の遅延が加わる。
三秒に届く直前、返答が来た。
RESPONSE ACCEPTED
同時に、前方の校正室で十三枚の遮光板が開閉した。
乱数と同じ順序だった。
「現在の問いに、現在の装置操作で応答しています」
MICA-13が言う。
「少なくとも、この回線の先には現在活動中の人物がいます」
スピーカーから息を吐く音がした。
「声紋だけじゃ、あなたは信じないと思った」
MICA-13の返答は、通常より0.8秒遅れた。
「エナ・ソレルと断定する証拠は、まだ不足しています」
「変わってないね」
「私は変化しています」
短い沈黙。
「それなら、会って確認して」
第七校正室の扉が開いた。
中継局を壊したい女
公開回線へ、別の声が割り込んだ。
中央通信保全局の監査官、ライサ・クォン。
四十二歳。
K-0の廃止処理を十三年前に担当した人物だった。
「ナイトジャー号。直ちに退去してください」
「破壊命令を止めろ」
レイが言った。
「止められません。K-0は、発信元を偽装できる無監査回線です」
「今、話している人間がいる」
「だから危険なのです」
ライサは十三年前の事故記録を送った。
月裏面鉱山の崩落。
退避済みの坑道から救難信号が繰り返され、二次救助隊が戻った。二度目の崩落で十一名が死亡した。
救難信号の発信元はK-0と記録されていた。
しかし実際にどこで録音され、どの経路を通ったのか、誰にも確認できなかった。
ライサの姉は、その救助隊にいた。
「経路が監査できない通信は、人を救うだけではありません」
「偽の救難、偽の命令、偽の宣戦布告も届けられる」
エナの声が返る。
「中央に記録された経路なら安全?」
「少なくとも責任者を追えます」
「私の経路は中央に記録されていた。十三分ごと消されたけど」
ライサは答えなかった。
どちらも間違っていなかった。
隠された回線は、消去から証言を守れる。
同じ仕組みで、発信元を偽ることもできる。
ミラが言った。
「秘密のまま残すから、どちらも証明できない」
レイは前方の光路を見る。
「なら、全部出す」
エナが静かに訊いた。
「K-0の経路を?」
「十三室の位置も、遅延も、表側の送信端も」
「公開したら、この回線は二度と隠れ場所に使えない」
「生きて出てから考えろ」
「そういうところも、変わってない」
第十校正室
残り六分十二秒。
第十校正室の先で、本線は二方向へ分かれていた。
一方はエナの声が強い。
もう一方は、ほとんど無音。
「どっちだ」
ジョウが訊く。
ミラは十三個の遅延を数えた。
強い方には、校正反射が十一個しかない。
無音の方には、弱いが十二個ある。
「強い方は、エナの音声だけを再生する囮」
「本人は?」
「無音の方」
レイは迷わず無音の通路へ入った。
背後で第八室が爆破される。
天井から岩片が落ち、最後尾の反射鏡が割れた。
ハクとの通信が切れる。
月裏面の地下で、四人は完全に外界から孤立した。
MICA-13だけが、光ケーブルの中を走るパルスを追っている。
「第十一室、消失」
「残りは」
「二室です」
「時間じゃない」
レイが言う。
「人間は何人いる」
MICA-13は前方へセンサーを向けた。
岩壁の奥に、かすかな熱源。
心拍。
呼吸。
「現在観測人口、一名」
扉の向こうから、手動ロックが外れる音がした。
三年ぶりの生存確認
第十三校正室は、通信室というより小さな救難艇の内部に近かった。
壁には食料容器、予備酸素、交換済みの光部品が積まれている。
中央の操作卓に、一人の女性が立っていた。
髪は以前より短い。
左のこめかみから頬にかけて、白い傷が残っている。
エナ・ソレル。
レイは、何度も映像で見た顔を前にして、何も言えなかった。
エナが先にナイトジャー号の識別票を見た。
「その船」
声が少し震えた。
「ちゃんと、レイまで届いたんだね」
レイは三歩進み、止まる。
「遅かった」
「うん」
「三年だ」
「私の方は、もう少し長く感じた」
MICA-13が二人の間へ入った。
「生体情報、顔形状、歩容、過去医療記録と照合」
十三秒ではなく、二秒で答える。
「エナ・ソレル本人と確認しました」
エナがMICA-13の外装へ手を触れた。
「忘れてくれて、ありがとう」
MICA-13は返答しなかった。
代わりに、記録へ一行を追加した。
ENA SOREL:CURRENTLY OBSERVED/ALIVE
中央登録では、今も死亡者のままだった。
MICA-13の観測では、生存している。
K-0はなぜ十三年も沈黙できたのか
エナは操作卓の下から、九枚の物理鍵を取り出した。
船体振動。
火星画像。
月面足跡。
生体記録。
時計。
重力映像。
熱履歴。
慣性公証核。
圧力隔膜。
九つの証言を重ねなければ、K-0の第十三室は開かない。
「一つの電子鍵にしたら、零号記録官に消される」
エナが言う。
「だから、違う物理法則を通った証言を鍵にした」
「ずっとここにいたのか」
レイが訊く。
「違う。追われながら、残った証言を起動していた。九つ目が木星で開いたから、ここへ戻れた」
「なぜ連絡しなかった」
「一つ目で連絡したら、あなたは一つ目で来る」
「当然だ」
「そして、証拠より先に捕まる」
レイは否定できなかった。
エナは第十室の中央から、透明な光学板を外した。
板の内部には、十三本の細い光路が焼き付けられている。
それぞれの長さが違う。
信号を通すと、十三種類の遅れとして現れる。
WITNESS 10:RELAY
第十証言だった。
第十証言を、秘密のまま残すか
残り三分四十秒。
十二番目の校正室が爆破された。
地上へ戻る回線は、第十三室と表側送信端を結ぶ一本だけになる。
その一本も、三分後に切れる。
エナが第十証言をK-0に接続した。
画面に二つの送信方法が表示される。
非公開送信
第十証言だけを、選ばれた受信者へ送る。
K-0の経路は秘密のまま残り、将来も隠密通信に使える。
ただし中央通信保全局は、発信元偽装の可能性を理由に証拠能力を否定できる。
全経路公開
十三校正室、地下幹線、表側送信端、各遅延値を公開する。
誰でもK-0の経路を検証できる。
同時に、エナが三年間守った避難経路は失われる。
「秘密を守れば、また使える」
エナが言った。
「公開すれば、証言になる」
レイは答えを彼女へ返した。
「お前の証言だ」
エナは数秒、九つの鍵を見た。
そして全経路公開を選んだ。
「隠れ場所は、もういらない」
月の向こうで、ハクが中継になる
問題が一つ残っていた。
表側送信端はすでに損傷し、地球へ届く出力がない。
K-0の地下線を通しても、月の表側で信号が止まる。
外部へ送る中継機が必要だった。
ハクの《ヴェスパー》は、月の縁に近い高軌道へ移動していた。
そこからなら、K-0側の臨時レーザー端末と地球圏の双方を時間差で見通せる。
ただし軌道を上げれば、ステルスを失う。
ナイトジャー号、エナ、エリアスへ懸けられた賞金を狙う船からも位置が見える。
ハクの回線が復帰した。
「通信一回につき、百二十万」
「高い」
レイが答える。
「今なら生存者割引で九十万だ」
エナが小さく笑った。
「ハク。まだ私への借りを利息付きで数えてるの?」
回線の向こうで沈黙があった。
「生きていたのか」
「残念?」
「回収できる債権が増えた」
《ヴェスパー》が軌道を変えた。
月の影から出る。
同時に、賞金稼ぎ船七隻が進路を変えた。
ハクは自分の位置を全公開しながら、K-0の信号を受ける。
「送れ」
レイが言う。
第十証言、十三校正室の座標、地下幹線の実長、光学遅延、表側送信端の記録、零号権限による中継分類変更履歴が一斉に送信された。
《ヴェスパー》が地球圏へ転送する。
RELAY HOPS:1
MICA-13が表示を読み上げた。
「今回は、中継が記録されています」
ハクの声が返る。
「無料じゃないからな」
沈黙した中継局
送信完了と同時に、最後の破壊信号が届いた。
地下幹線の表側区間が切断される。
K-0の十三本の光が、一本ずつ消えた。
ライサ・クォンの画面には、公開された全経路と十三年前の事故記録が並んでいた。
事故当時の救難信号は、K-0で録音されたものではなかった。
中央側の別施設から地下線へ注入され、発信元だけをK-0に付け替えられていた。
K-0が救助隊を騙したのではない。
K-0の「中継0」という制度を利用した誰かが、発信元を消したのだ。
ライサの声が低くなる。
「十三年前の処分判断を、再調査に移します」
「今さら?」
エナが訊いた。
「今さらでも、記録を訂正する」
K-0の主回線が完全に切れた。
最終通信時刻が、初めて十三秒前から進み始める。
十四秒。
十五秒。
十六秒。
十三年間、廃止されたまま通信し続けた中継局は、証言を外へ出した後で、本当に沈黙した。
真相——通信は月を貫通していなかった
K-0の通信経路は、次のとおりだった。
- 月裏面の第十三室で音声・データを光信号に変換する
- 下向きアンテナから月面下の光幹線へ送る
- 総延長6,842キロメートルの地下線を通る
- 十三基の校正・増幅室で信号を維持する
- 月表側の送信端から地球圏へレーザー送信する
- 中央規約上は全設備を一つのK-0施設として扱うため、中継回数は0になる
電波やレーザーが月の岩を通り抜けたのではありません。
物理的なケーブルが、遮蔽物の向こう側まで信号を運んでいました。
K-0の記録は形式上、規約に従っています。
しかし「中継0」という数字だけを見れば、月裏面から地球へ直接通信したように誤解させられます。
零号記録官は、信号を消しただけではありません。
何を中継と呼ぶかを変え、経路そのものを記録から消していた。
第十証言:RELAY
エナが公開した光学板には、十三の物理遅延が残されていた。
中央ログから中継設備を削除しても、信号が通った距離、波長ごとのずれ、校正室の反射は消えない。
WITNESS 10:RELAY
中継を0と記録しても、信号が通った距離は消えない。
届いた場所は、発信した場所とは限らない。
この証言によって、零号記録官には次の権限があると確定した。
- 通信の発信元を論理上の入口に付け替える
- 物理的な増幅設備を「中継」に数えない
- 中継回数・到達判定・配送経路を変更する
- 廃止済み施設を経路の表面上から消す
さらにK-0の承認記録から、REGISTRAR-0は一人の固有名ではなく、複数組織から利用できる根幹権限であることが物証化した。
誰が現在その権限を集約しているのかは、まだ分からない。
エナがナイトジャー号へ戻る
地上へ出ると、月裏面の空に地球はなかった。
それでも《ヴェスパー》を経由し、公開網から無数の受領確認が届いている。
K-0の経路は、もう秘密ではない。
エナの生存も、秘密ではなくなった。
ハクがエナの生け捕り令状を自分の名義で受諾した。
「何をしてる」
レイが睨む。
「他の連中が受けられないようにした」
「引き渡し先は」
「未定だ。依頼人の実在確認が終わるまでな」
エナがハクを見る。
「三年で、ずいぶん親切になったね」
「親切は無料だ。信用できない」
レイはナイトジャー号の乗降口を開けた。
エナが三年前に使った救難艇。
MICA-13が彼女を忘れ、レイへ届けた船。
エナは外板の傷へ指を添えた。
「帰ってもいい?」
レイは先に船内へ入った。
「お前の船だ」
「今は、あなたの船でしょ」
「話は飛んでからだ」
エナは笑い、ナイトジャー号へ乗り込んだ。
三年前に途切れた乗員が、ようやく同じ船へ戻った。
月裏面通信に中継が必要な理由
電波には見通し線が必要
宇宙通信で使う多くの電波やレーザーは、送信機と受信機の間をほぼ直線的に進みます。
月裏面と地球の間には月本体があるため、地球側のアンテナから直接見えません。NASAも、地球が見えない月裏面などでは直接通信が成立しにくく、中継サービスが必要だと説明しています。[参考1]
中継衛星は両方が見える場所に置く
月裏面探査では、探査機と地球の双方を見通せる軌道へ中継衛星を置きます。
現実の例では、中国の鵲橋・鵲橋2号が月裏面ミッションの通信を支援しています。NASAのLunar Communications Relay and Navigation SystemsやESAのLunar Pathfinder/Moonlight構想も、地球を直接見られない場所を含む月面活動への通信提供を目的としています。[参考1][参考5][参考6][参考7]
月面の地形も通信を遮る
地球が見える表側でも、クレーターの縁、山、基地構造物がアンテナの見通し線を遮る場合があります。
そのため月面通信では、地球がどちらにあるかだけでなく、アンテナからの視界、軌道中継機の位置、地形の高さも重要です。
月までの通信には時間がかかる
地球と月の平均距離は約38万キロメートルです。
光や電波でも、片道およそ1.3秒かかります。会話では返答が戻るまで少なくとも約2.6秒に、機器処理や経路の遅延が加わります。[参考9]
今回の事件では、この通常遅延に地下光回線の余分な遅延が加わっていたため、「直通ではない」と判断できました。
光ファイバーを使えば、月を貫通せず裏側から表側へ運べる
光ファイバーは、ケーブル内部へ光信号を閉じ込めながら伝えます。
長距離では損失や波形の崩れが生じるため、増幅・再生設備が必要です。
作中の月横断地下光幹線は2319年のフィクションですが、原理としては「電波が岩を貫通する」のではなく、「物理ケーブルが遮蔽物の向こうまで続いている」方式です。
月には地下空洞や溶岩洞の存在を示す観測があり、将来の探査・居住候補として研究されています。ただし、現実に月の表裏を結ぶ長大な地下光幹線が存在するわけではありません。[参考8]
中継回数0が確定したこと
区分表示:ナイトジャー号、月裏面第0中継局K-0、六百四十万クレジットの施設処分令状、月の表裏を結ぶ地下光幹線はSTAR WARRANTの物語です。月裏面から地球へ電波やレーザーを直接送れないこと、中継衛星などの経路が必要なこと、地球・月間の片道光行時間が約1.3秒であること、長い経路や機器処理が遅延として残ることは現実の通信物理であり、作中の中継回数0という記録上の定義とは区分します。
REAL SCIENCE 現実の科学
- 月裏面から地球は直接見えない
- 月本体は地球との一般的な無線通信を遮る
- 月裏面通信には中継衛星などの経路が必要
- 電波・レーザー通信には見通し線が重要
- 地球・月間の片道光行時間は約1.3秒
- 光ファイバーでは光信号を物理ケーブル内へ伝えられる
- 長い経路や機器処理は、到着時刻へ遅延として残る
- 月には地下空洞・溶岩洞の存在を示す観測がある
STORY 作中だけの設定
- 月裏面第0中継局K-0
- 月の表裏を結ぶ総延長6,842キロメートルの地下光幹線
- 十三基の校正・増幅室
- 十三物理証言を鍵にする第十三室
- 零号記録官による中継分類変更
- 中央通信保全局とライサ・クォン
- エナ・ソレルの三年間の潜伏経路
この事件で確定した作中の事実
- エナの音声は過去録音ではなく、現在の生通信だった
- エナ・ソレル本人は生存していた
- K-0は表裏二つの開口部と地下線を含む一施設だった
- 中継回数0は、物理経路がないという意味ではなかった
- 零号記録官は通信発信元・中継分類・到達経路を変更できる
REGISTRAR-0は一人の固有名ではなく、複数組織から使える根幹権限- エナはナイトジャー号へ合流した
次の事件へ残った作中の問い
- 誰が零号権限を集約し、十三分間の連続消去を命じたのか
- 残る第十一・第十二・第十三証言の媒体
- エナが三年間で見た零号記録官の中枢
- なぜ太陽系全体の基準を書き換える必要があったのか
HYPOTHESIS 月地下空洞に残る科学的な未確定事項
- LROのレーダー再解析は、月の縦穴の下から少なくとも約60メートル延びる空洞の証拠を示しました。ただし、その全長や形、ほかの縦穴と地下でつながる「網」になっているかは、まだ現地確認されていません。[参考8]
空洞の存在可能性は、作中の月横断地下光幹線が現実にあることを意味しません。
月の裏側の通信について、よくある疑問
月の裏側は、いつも暗い?
いいえ。
月裏面にも昼と夜があります。「裏側」は地球から見えない側という意味で、「常に太陽が当たらない側」ではありません。
月の裏側からスマートフォンで地球へ電話できる?
現在の一般的なスマートフォンだけではできません。
月面用の通信設備、アンテナ、中継衛星、地球側ネットワークなどが必要です。
強い電波なら月を貫通できる?
通常の宇宙通信で使う電波を、月の直径に相当する岩石へ通して実用的な通信を行うことはできません。
周波数によって物質への浸透の仕方は異なりますが、「出力を上げれば月を丸ごと貫通して高品質通信できる」というものではありません。
月の縁を電波が回り込むことはない?
波は条件によって回折しますが、月裏面から地球へ通常の高帯域通信を安定して成立させられるほど都合よく回り込むわけではありません。
現実の探査では、確実な中継衛星や別の通信経路を用います。
月裏面で通信できないことには利点もある?
あります。
月が地球からの電波雑音を遮るため、月裏面は低周波電波天文学に適した静かな環境として注目されています。[参考3]
次の賞金事件
ナイトジャー号へ戻ったエナは、第十証言の光学板を太陽へ向けた。
十三本の光路のうち、十一本目だけが黒く変色している。
MICA-13が内部命令を復号した。
SOLAR LEDGER S-0
SUNSET EXECUTION:72:00:00
TARGET COLONIES:43
太陽観測所のデータは正常だった。
核融合反応も、明るさも、寿命予測も変わっていない。
それでも四十三の居住地では、七十二時間後、同じ瞬間に太陽が見えなくなると予告されている。
エナは言った。
「太陽そのものは盗めない」
「でも、誰に光が届いたことにするかは、書き換えられる」
太陽はいつまで燃える? CASE 011「太陽を盗む予告状」
太陽が消えるまで、残り七十二時間。
SEASON 1 EVIDENCE
この捜査で確定したこと
- WITNESS 10:RELAY
- 月表裏を結ぶ地下光幹線と十三校正室の物理遅延署名
- 現在の観測によって確認されたエナ・ソレルの生存
読了記録は、この端末のブラウザーにだけ保存されます。
参考資料
- NASA「Exploration and Space Communications: Lunar Communications Relay and Navigation Systems」
- NASA「NASA Picks Firefly Aerospace for Robotic Delivery to Far Side of Moon」
- NASA/JPL「Lunar Crater Radio Telescope: Illuminating the Cosmic Dark Ages」
- NASA「Autonomous Mission Operations」
- CNSA「China launches relay satellite to explore Moon's far side」
- CNSA「China launches new relay satellite for Earth-Moon communications」
- ESA「Lunar Pathfinder」
- NASA Science「New Evidence Adds to Findings Hinting at Network of Caves on Moon」
- NASA Science「Moon Facts」
- NASA「Laser Communications」