SEASON 1 / CASE 008 / 賞金 都市救難 740,000 cr ほか
無重力でも質量はなくならない? CASE 008「重さゼロの密輸品」
この記事のもくじ(17項目)
まずは、かんたんな答えから
無重力でも質量がなくならないのはなぜか、かんたんに言うと
無重力の場所では、物は軽くなるのでしょうか。答えはいいえです。
重さを感じなくなるだけだからです。物そのものの量、つまり質量はなくならないからです。ゆかや台に押される感じが消えるので、持ち上げるのは楽になります。
でも、動かすのは楽になりません。重い荷物を押せば、押した自分も反対へ動きます。いちど動きだしたものを止めるのも大変です。
宇宙船の進む向きを変えるときも同じです。全部の重さに見あった力と、そのための燃料がいります。
つまり無重力でも、重い物はやっぱり重いのです。軽くなったのではなく、持ち上げるのが楽になるだけです。
この記事に出てくるナイトジャー号は、STAR WARRANT の物語です。無重力、質量についての説明は、実際の観測と研究にもとづいています。
0キログラムの貨物船が、十二万人の都市を押し潰そうとしていた。
無人貨物船《ハルシオン》。
公式積載量は、0.00キログラム。
貨物室の黒い円筒は、床へ落ちることもなく、羽のように静かに浮いている。
それでも船は、予定された進路変更に十三秒遅れた。
推進器の反応から計算された未登録質量は、少なくとも一万八千トン。
衝突先は、小惑星都市《アリアドネ》。
残り時間は、二時間十三分だった。
先に結論:無重力になっても、質量はなくならない
宇宙船の中で物が浮いて見えるのは、多くの場合、その物体と宇宙船が一緒に自由落下しているためです。重力そのものが完全に消えたわけではありません。
自由落下中の普通の体重計は、足で台を押す力をほとんど検出できないため、表示が0に近くなります。しかし、物体の質量は変わりません。NASAも、軌道上では物体が体重計で0を示しても質量は同じだと説明しています。[参考1][参考2]
質量が大きい物体ほど、同じ力を加えても加速度は小さくなります。また、一度動き始めると止めるためにも大きな力が必要です。これが慣性です。[参考3][参考4]
そのため無重力の貨物室では、巨大な荷物を指先で動かし始められることがありますが、簡単に止められるとは限りません。ゆっくり漂う大質量の物体でも、壁や人へ衝突すれば危険です。
では、《ハルシオン》の記録から一万八千トンもの質量を消したのは誰でしょうか。
そして、なぜその船を十二万人の都市へ向かわせたのでしょうか。
公式値は0、観測値は18,412トン
ナイトジャー号の中央画面には、二つの数字が並んでいた。
貨物登録質量 0.00kg
推進応答推定質量 18,412,000kg
ジョウは数字を三度見た。
「桁が壊れたか」
MICA-13が答える。
「表示系統は正常です」
「なら、宇宙の方が壊れた」
「その可能性は、現在の証拠からは採用しません」
レイは《ハルシオン》の航路を拡大した。
船の前方には、小惑星都市《アリアドネ》がある。
掘り抜いた小惑星の内部に、居住区、工場、学校、農業環、港を収めた都市だ。
人口は十二万四百十八人。
現在、《ハルシオン》は都市の回転軸側へ向かっていた。
通常なら港の牽引船が進路を外せる。
だが、牽引計画は「空の貨物船」を前提に作られている。
「予定の噴射を全部使っても、軌道を外せません」
ミラが言った。
「どれだけ足りない」
「必要速度変化は毎秒0.46メートル。船の残存推進剤で出せるのは、正しい質量を使えば毎秒0.11メートル」
「登録上は」
「毎秒1.74メートル。十分すぎる数字になる」
画面へ新しい賞金が表示された。
《ハルシオン》貨物・無損傷回収
報酬 12,000,000クレジット
都市救難賞金の十六倍以上だった。
《ヴェスパー》から通信が入る。
ハク・ヴェイルは、その金額を見ても笑わなかった。
「無傷で渡せという依頼だ。中身の価値は、その倍以上ある」
「都市を避けながら回収する」
レイは答えた。
「両方取れると思うな。時間が足りない」
「なら、先に人を救う」
「君は金の使い方が下手だ」
「お前は高い方を取るのか」
ハクは少しだけ黙った。
「まだ決めていない」
MICA-13がもう一度、二つの数値を表示する。
公式値:0
観測値:18,412,000
CASE 004の《ケストレル》でも、中央登録人口は0だった。
あのとき、MICA-13は現在の生命反応を選んだ。
レイは聞く。
「今回は、どちらを使う」
十三秒の沈黙はなかった。
「観測値を採用します」
船は十三秒間、動かなかったのか
《ハルシオン》の記録には、奇妙な項目があった。
姿勢変更応答遅延:13.02秒
「力を加えてから十三秒間、まったく動かなかったように見える」
レイが言った。
ミラは首を振った。
「実際には、噴射開始と同時に加速している。ただし質量が想定より大きすぎて、角速度センサーの検出しきい値を超えるまで十三秒かかった」
力が船の中を十三秒かけて伝わったわけではない。
反応が遅れたように見えたのは、同じ推力に対する加速度が小さすぎたためだ。
同じ力なら、質量が大きいほど加速度は小さい。
登録質量を信じた航法AIは、《ハルシオン》がすぐ向きを変えると予測した。
現実の船は、ほとんど向きを変えなかった。
「数値を消しても、機械の反応は消せない」
ジョウが言った。
その言葉に、N-7から回収した十三本の黒い円筒が反応した。
一本目の表面へ、白い文字が現れる。
WITNESS 08:INERTIA
軽そうに浮かぶ、止められない貨物
ナイトジャー号と《ヴェスパー》は、《ハルシオン》の左右に接続した。
貨物船に人工重力はない。
接続口を抜けた先には、直径六十メートルの円筒形貨物室が広がっていた。
照明の消えた空間に、黒い貨物筒が浮いている。
一本、二本ではない。
幾重もの列が、暗闇の奥まで続いていた。
床にも天井にも接していない。
固定具から外された貨物は、静止したまま浮いているように見える。
ハクが近くの一本へ指を当てた。
「これが一万二百万の一部か」
わずかに押す。
ハクの身体が反対方向へ流れた。
貨物筒は、ほとんど動かなかった。
ジョウがハクの安全索をつかむ。
「高い授業料を払う前に言っておく。浮いているのは軽いからじゃない」
貨物筒の質量表示は、0.00kg。
ジョウは靴の磁気固定を強くし、両手で押した。
今度は貨物筒がゆっくり動き始める。
同時にジョウの身体も後ろへずれた。
「動いた」
レイが言う。
「動かすだけならな」
ジョウは筒の前方へ回り込まず、側面の固定索を伸ばした。
「止める方が危ない」
黒い筒は、秒速数センチで貨物室を横切っていく。
遅い。
だが数百トンあるなら、身体で受け止められる運動量ではない。
進行方向の壁には、古いへこみが何本も並んでいた。
すべて同じ高さ。
貨物筒が過去に固定を失い、船壁へ衝突した跡だった。
警告灯が点滅する。
一番奥の列から、別の貨物筒が離れた。
こちらへ向かっている。
ジョウが叫ぶ。
「押し返すな。横へ逃げろ!」
レイは壁を蹴ようとして、足を止めた。
自分で壁を押せば、自分の身体が反対方向へ動く。
レイは天井索をつかみ、身体を横へ振った。
黒い筒が数十センチ先を通り過ぎる。
風は起きない。
轟音もない。
そのまま反対側の隔壁へ衝突した。
船体全体へ、低い振動が走った。
隔壁が八センチ沈んだ。
MICA-13が報告する。
「衝突貨物の推定質量、三百八十六トン」
ハクが安全索を引き戻しながら言った。
「羽にしては重いな」
無重力では「重さ0」でも「質量0」ではない
地上で体重計に乗ると、私たちは重力に引かれながら床を押します。体重計は、台へ加わる力を測って重さとして表示します。
軌道上では、宇宙船も人も貨物も一緒に自由落下しています。普通の台ばかりでは、物体が台を押し続けないため、表示は0に近づきます。
しかし、その物体へ既知の力を加え、どれだけ加速したかを測れば質量を推定できます。
- 同じ力で大きく加速する物体は、質量が小さい
- 同じ力でも少ししか加速しない物体は、質量が大きい
NASAは微小重力下で宇宙飛行士の質量を測る際、ばねなどで既知の力を加え、その加速度や振動を利用する装置を使用してきました。[参考5][参考6]
《ハルシオン》の貨物も、床へ落ちないという意味では重さを感じにくくなっています。
それでも、進行方向を変えにくい性質――慣性は残っています。
あなたなら、どの証拠から質量を測る?
A:推進器の噴射記録
既知の推力を加えたとき、《ハルシオン》がどれだけ加速したかを調べる。
B:十三本の黒い基準筒
N-7から回収した小型円筒をばね式の測定台で振動させ、質量を比較する。
C:貨物室の衝突痕
隔壁の変形量、貨物の速度、固定具の破断履歴から、過去の運動量を復元する。
三つの証拠は、違う方法で同じ結論を示した。
A:推進器は、貨物の数字を知らない
《ハルシオン》の主推進器は、十三秒間に一定量の推進剤を消費していた。
推力計も正常。
それでも得られた加速度は、公式質量から予測される値の四分の一以下だった。
推進器は、登録簿を読んで船を押すわけではない。
現実に存在する全質量を押す。
噴射量と加速度から逆算すると、船の総質量は二万四千八百十二トン。
既知の船体・燃料・設備を除いた未登録貨物は、一万八千四百十二トンだった。
B:十三本の円筒は、はかりではなく時計だった
N-7から回収した小型円筒を、ジョウが貨物監査台へ一本ずつ固定した。
監査台は、物を下へ押しつけて重さを測る装置ではない。
左右のばねで円筒を振動させ、その周期から慣性質量を調べる。
一本目と二本目では、振動周期がわずかに違った。
十三本すべてが、異なる既知質量を持っている。
合計は、N-7の設計超過と一致する412キログラム。
「鍵だ」
ジョウが言った。
「何の」
「質量を数字じゃなく、動きで証明する鍵」
十三本を貨物室の監査受けへ挿入すると、中央壁が開いた。
内部には、巨大な円筒群の物理台帳があった。
電子署名ではない。
各円筒の正確な質量、重心位置、回転させたときの慣性モーメントが、一本ごとの照合情報になっている。
一部を削ったり、中身を入れ替えたりすれば、力を加えたときの動きが変わる。
黒い円筒の正式名称が表示された。
INERTIAL WARRANT CYLINDER
慣性公証筒
ミラが記録を読む。
「中央記録局が、改ざん不能な原本として保管していた物理証拠」
「改ざん不能な物を、自分たちで運んでいたのか」
「消すために」
C:壁のへこみは、積荷の配置図だった
貨物室の衝突痕は事故ではなかった。
十三列の筒は、船の重心を中央に合わせるよう配置されていた。
外部から船を回転させる簡易監査をしても、重心の偏りが出にくい。
さらに貨物固定具は、監査時だけ筒を自由落下させるよう設定されていた。
支持荷重を測る検査台は、0を示す。
中央登録局の変換システムは、その「支持荷重0」を「貨物質量0」として輸出していた。
単純な機器故障ではない。
慣性監査を免除する上位権限が、同時に付与されている。
登録欄には一つの署名があった。
REGISTRAR-0
零号記録官
セリア・ルークより上位の権限だった。
0キログラム登録の本当の目的
ハルシオンの物理台帳を開くと、貨物の正体が判明した。
黒い円筒には、中央記録局が処分対象とした原本が収められている。
- 消去前の移送命令
- 書き換え前の船舶質量記録
- 登録から削除された施設の部材証明
- 失効前の逮捕令状
- 十三分間の欠落を作った物理保守鍵
デジタル記録を消しても、物理原本は残る。
物理原本を破壊するには、別の証拠滅却が必要だった。
《ハルシオン》の衝突先、アリアドネには、星間独立慣性標準局がある。
重力や中央登録に頼らず、力と加速度から物体の質量を測定する機関だ。
貨物と都市を同時に破壊すれば、原本も、それを証明できる設備も消える。
そして貨物質量を0と登録すれば、二つの効果が生まれる。
- 航法AIが必要な進路変更量を過小評価する
- 都市防衛網が《ハルシオン》を大質量衝突物として認識しない
これは密輸ではなかった。
一万八千トンの証拠を積んだ、記録上存在しない運動兵器だった。
MICA-13が言う。
「中央登録上、この船はアリアドネへ重大な損害を与えられません」
レイは窓の向こうの都市を見た。
「お前はどう判断する」
「現在観測された質量と速度から、都市壊滅の危険があると判断します」
「なら、記録を書き換えろ」
「中央登録を変更する権限はありません」
「中央じゃない。お前の記録だ」
MICA-13は、公式値0の横へ新しい項目を作った。
MICA-13観測記録
存在質量:18,412,000kg
危険判定:実在
十二万人か、一万二百万クレジットか
残り一時間十一分。
アリアドネの牽引船は、《ハルシオン》へ到達した。
しかし全船で引いても、必要な速度変更の半分に届かない。
ミラが貨物設備図を開く。
「荷下ろし用の射出レールがある」
ハクは意図を理解した。
「貨物を後方へ撃ち出して、船を反対方向へ押す気か」
「正確には、都市から外れる方向へ」
物体を一方向へ押し出せば、船は反対方向へ力を受ける。
ロケットが推進剤を後方へ噴射して前へ進むのと同じ、作用反作用だ。[参考3][参考4]
貨物を外へ射出すれば、その運動量の分だけ《ハルシオン》の速度を変えられる。
ただし必要な射出量は、約二千六百トン。
無損傷回収契約は失敗になる。
「一千二百万が消える」
ハクが言った。
レイは答えた。
「十二万人は残る」
「数字だけなら、君の方が高い」
「今回は決めたか」
ハクは契約画面を閉じた。
「貨物の所有権を放棄したわけじゃない。散らした後で拾う」
「全部か」
「君たちが先に壊さなければな」
十三回の荷下ろし
射出レールは十三列あった。
しかし制御装置は、貨物質量0を前提に安全停止している。
MICA-13には解除権限がない。
ジョウがN-7の小型公証筒を持ち上げた。
「権限がないなら、機械に測らせる」
十三本を、それぞれのレールにある慣性監査台へ装着する。
ばねが振動し、既知の質量が物理的に照合される。
一番目のレールが緑に変わった。
二番目。
三番目。
十三番目。
INERTIAL AUDIT ACCEPTED
質量監査・受理
中央登録の0ではなく、監査台が実測した値で射出計画が作り直された。
ミラが順序を読み上げる。
「第一列から第十二列。合計二千百八十八トン。相対射出速度、毎秒3.2メートル」
「十三列目は」
「中央公証核。四百十二トン」
ハクが画面を見る。
「第八証言そのものだ。最後に撃ち出せば、誰かに奪われる」
「撃ち出さなければ、アリアドネを外れるために二百メートル足りない」
レイが言った。
ハクは《ヴェスパー》への帰還経路を表示した。
「俺が拾う」
「四百十二トンだぞ」
「浮いている」
ジョウが笑わなかった。
「今日の授業を最初から受け直せ」
第一射出
貨物室の後方扉が開く。
真空の向こうに、アリアドネの灯りが見えた。
固定具が一列目の公証筒を射出台へ送る。
音はない。
レールの表示だけが走る。
3
2
1
黒い筒の列が宇宙へ放たれた。
同時に《ハルシオン》全体が反対方向へ押される。
ナイトジャー号との接続部が軋んだ。
ジョウの身体が安全索へ食い込む。
MICA-13が報告する。
「速度変化、毎秒0.028メートル」
「計算どおり」
ミラが答える。
第二射出。
第三射出。
射出された貨物には、ハクが回収ビーコンを付ける。
アリアドネの牽引船が、都市から離れる安全回収軌道へ誘導する。
第七射出の直前、貨物室の固定具が停止した。
中央登録局から、新しい命令が届く。
物理原本保全命令
貨物射出を禁止
違反船を即時切断
ナイトジャー号の接続クランプが自動解除を始める。
MICA-13が言う。
「命令署名は有効です」
「従うのか」
レイが聞いた。
「中央規則では、物理原本は都市人口より優先されます」
「お前は、どうする」
MICA-13は十三本の基準筒を測定した。
十二万人の生命反応を確認した。
現在の衝突航路を再計算した。
「中央規則を拒否します」
切断信号が止まる。
「理由は」
「質量0の貨物が、人口12万418名へ損害を与えないという前提が、観測と矛盾するためです」
「それで十分だ」
第七射出が始まった。
動き始めた四百十二トン
第十二射出まで完了した。
《ハルシオン》の航路は、大きく都市の外側へ動いている。
しかし衝突予測線は、まだアリアドネの外殻をかすめていた。
残るのは、十三番目の中央公証核。
直径四メートル。
質量四百十二トン。
その内部に、第八証言と零号記録官の物理署名がある。
射出台へ送る途中、中央公証核の固定具が破断した。
巨大な黒い円筒が、貨物室内へ自由に漂い始める。
射出レールとは逆方向へ進んでいる。
「止めろ」
レイが核の正面へ向かう。
ジョウが叫んだ。
「身体で止めるな!」
レイは側壁の索をつかみ、核の側面へ回り込む。
核は秒速十二センチ。
見た目には遅い。
だが四百十二トンの物体を正面から受ければ、宇宙服ごと隔壁へ押し潰される。
レイは核へ直接力を加えず、二本の牽引索を左右へ伸ばした。
ミラが反対側の索を固定する。
ジョウが貨物レールを逆方向へ微動させる。
三方向から少しずつ力を加える。
核の進路が、ゆっくり曲がる。
「もう少し右」
「右というのは船首基準か、貨物室基準か」
「今それを聞くな、MICA」
「曖昧な指示は事故原因になります」
ジョウが笑う。
「船首基準で右へ二度!」
核が射出台の中心へ入った。
固定爪が閉じる。
残り三分二十秒。
ハクは《ヴェスパー》を射出方向の外側へ移動させていた。
四百十二トンの核を受け止めるのではない。
同じ方向へ速度を合わせ、複数の牽引索で少しずつ相対速度を下げる。
「ハク」
レイが通信を開く。
「捕まえ損ねたら、十二百万どころじゃないぞ」
「だから君には任せない」
「船が壊れる」
「請求先は決まっている」
十三番目の表示が点灯する。
WITNESS 08:INERTIA
数字を消しても、力を加えたときの動きは消せない。
その下に、エナ・ソレルの署名。
そして、ユラ・セインの工具印。
第八証言は、二人で作られていた。
ミラが射出角を確定する。
「これを撃てば、ハルシオンはアリアドネを三・一キロ外れる」
「核は」
「ヴェスパーが速度を合わせられれば残る。失敗すれば小惑星帯へ流れる」
ハクが言う。
「失敗しない」
レイは射出許可へ手を置いた。
十二万人か。
第八証言か。
ナイトジャー号の自由か。
選ぶ時間はなかった。
「射出」
中央公証核が、暗闇へ放たれた。
《ハルシオン》が反対方向へ動く。
わずかな速度変化。
目で見ても分からない。
しかし衝突予測線は、アリアドネの外殻から離れた。
赤い線が黄色へ。
黄色が緑に変わる。
予測最近接距離:3.14km
都市衝突:回避
貨物室で、誰もすぐには話さなかった。
MICA-13が最初に報告する。
「観測人口12万418名。生命反応、継続」
レイは息を吐いた。
「第八証言は」
画面に《ヴェスパー》が映る。
船の前方で、四百十二トンの核が六本の牽引索に囲まれていた。
ハクの顔が通信窓に現れる。
「回収した」
「無傷か」
「無傷という言葉の定義次第だ」
《ヴェスパー》の前部装甲が大きくへこんでいた。
「請求する」
「一千二百万か」
「修理代だけだ。残りは相談する」
ハクは、完全回収賞金の契約を破棄した。
第八証言――慣性
アリアドネの慣性標準局で、中央公証核が開封された。
内部には、デジタル化されていない物理原本が残っていた。
十三分間の消去命令は、すべて同じ上位署名に集約されている。
REGISTRAR-0/零号記録官
個人名はない。
しかし、職務権限は確定した。
- 船舶登録質量の変更
- 慣性監査の免除
- 物理証拠処分
- 施設人口登録の消去
- 時刻変換表への優先アクセス
CASE 004の人口0。
CASE 005の時刻改ざん。
CASE 007の熱処分。
CASE 008の質量0。
別々の部署の事件ではなかった。
零号記録官は、存在を数字に変え、その数字を0に書き換える権限を持っていた。
十三本の小型公証筒には、ユラの声が残されている。
「重さは場所で変わる」
「数字も、誰かが変える」
「でも質量は、押したときに答える」
「誰かが存在を0にしても、その人が世界に与えた動きまで0にはできない」
ジョウは、工具箱に入れたユラの認証板に触れた。
MICA-13は、自分の新しい観測記録へ一行を追加する。
第八証言:回収済み
証明対象:記録上存在しない質量
判断:存在する
黒い円筒は、どこから来たのか
中央公証核の最深部には、発送元を示す機械式刻印があった。
ORIGIN
JOVIAN SURFACE DEPOT G-0
木星地表・第0保管庫
ジョウが読み上げる。
「木星地表?」
ミラの表情が変わる。
木星は巨大ガス惑星だ。
地球の大地のように、人が降り立てる固体表面はない。
深く降りるほど圧力と温度が上がり、水素は通常の気体とは異なる状態に変わっていく。
「存在しない場所を発送元にした偽装か」
レイが聞く。
「そうかもしれない」
ミラは刻印の下を示した。
受領責任者の欄には、実在する人物名がある。
ELIAS VENN
木星地表監査官
その人物には、現在三百万クレジットの賞金が懸けられていた。
容疑は、中央記録局施設への不法侵入。
証言欄には、一文だけ残されている。
私は、木星に立った。
さらに公証核の第九区画が開く。
WITNESS 09:PRESSURE
宇宙で質量をどう測る?
地上の一般的な体重計は、重力によって人が台を押す力を利用します。
微小重力環境では、その方法が使いにくくなります。しかし質量は、次のような方法で測れます。
既知の力と加速度を使う
物体へ分かっている大きさの力を加え、どれだけ加速したかを測ります。
同じ力なら、質量が大きいほど加速度は小さくなります。
NASAの宇宙用質量測定装置SLAMMDも、ばねで力を加え、測定した加速度から質量を求める考え方を使っています。[参考5]
振動周期を使う
物体をばねに固定して振動させると、質量によって往復の周期が変わります。
宇宙飛行士の体重測定にも、慣性や振動を利用する装置が使われてきました。[参考6]
推進器の応答から船全体を推定する
宇宙船の推力が分かり、加速度を精密に測定できれば、船全体の質量を推定できます。
ただし実際の運用では、推進剤消費、構造振動、姿勢、外力、測定誤差なども考慮する必要があります。
一万八千四百十二トンが確定したこと
区分表示:ナイトジャー号、無人貨物船《ハルシオン》、小惑星都市《アリアドネ》、七十四万クレジットの都市救難契約、慣性公証筒はSTAR WARRANTの物語です。無重力でも質量と慣性がなくならないこと、自由落下では支持力が消えて重さを感じにくいこと、同じ力なら質量が大きい物体ほど加速度が小さいことは現実の力学であり、一万八千四百十二トンという作中の数値や0キログラム登録とは区分します。
REAL SCIENCE 現実の科学
- 無重力や微小重力は、質量がなくなる現象ではない
- 軌道上で物が浮く主な理由は、宇宙船と物体が一緒に自由落下しているため
- 重量は重力などによる力で、質量とは同じではない
- 同じ力なら、質量が大きい物体ほど加速度が小さい
- 大質量の物体は、動かし始めるだけでなく止めることも難しい
- 物を一方向へ押し出すと、押し出した側は反対方向へ力を受ける
- 微小重力では、既知の力と加速度や振動周期から質量を測れる
STORY 作中だけの設定
- 無人貨物船《ハルシオン》
- 小惑星都市《アリアドネ》
- 慣性公証筒と物理的な質量署名
- 支持荷重0を貨物質量0に変換する中央登録システム
- 零号記録官
- 十三証言計画の第八証言
- 木星地表第0保管庫
この事件で確定した作中の事実
- 《ハルシオン》の未登録貨物質量は18,412トン
- 0kg登録は、監査回避と衝突危険度の隠蔽を目的に行われた
- 衝突先のアリアドネには独立慣性標準局が存在した
- 黒い円筒は改ざん検出用の物理原本「慣性公証筒」
- N-7の十三本は、第八証言を開く質量基準鍵だった
- 13分消去関連命令は、零号記録官の権限に集約される
- 第九証言は圧力に関係する
次の事件へ残った作中の問い
- 零号記録官の正体
- エナが十三証言計画をどこまで設計したのか
- 木星地表第0保管庫とは何か
- エリアス・ヴェンは、何を「地面」と呼んだのか
- エナの現在位置と生死
HYPOTHESIS 質量の等価性に残る科学的な未確定事項
- 物体の動かしにくさを表す慣性質量と、重力への応答を表す重力質量の等価性は、MICROSCOPE実験で約10のマイナス15乗の精度まで検証され、差は見つかっていません。ただし、検出限界より小さい違反が絶対にないと証明されたわけではなく、より高精度な検証は続きます。[参考8]
この未確定性によって、無重力でも貨物の質量と慣性が残るという本事件の結論は変わりません。
無重力と質量について、よくある疑問
無重力なら、重い物を指一本で動かせる?
摩擦や固定が少なければ、小さな力でも時間をかけて動かし始められます。ただし質量は残っているため、加速度は小さく、止めたり向きを変えたりするにも力と時間が必要です。
宇宙で100kgの物体は何kgになる?
質量は基本的に100kgのままです。普通の体重計が示す重量は場所や運動状態によって変わります。
宇宙船の中に、本当の無重力はある?
一般に「無重力」と呼ばれる環境も、厳密には微小重力です。軌道上では地球の重力が残っており、宇宙船と内部の物体が一緒に自由落下することで浮いて見えます。[参考1]
浮いている大きな物体へぶつかっても安全?
安全ではありません。物体が持つ運動量は質量と速度で決まります。速度が遅くても質量が非常に大きければ、衝突時に大きな危険があります。
宇宙でロケットが進めるのは、空気を押しているから?
違います。ロケットは推進剤を一方向へ高速で噴射し、その反作用で反対方向へ加速します。周囲の空気を押す必要はありません。[参考3][参考4]
捜査後記――0ではなかったもの
アリアドネの港で、ナイトジャー号は正式な入港許可を得られなかった。
賞金首の船だからだ。
都市の外側に係留し、救難報酬だけが送金された。
七十四万クレジット。
《ヴェスパー》の前部装甲修理費は、それを超えている。
ハクが請求書をレイへ送る。
「本当に全額請求したのか」
「善意は信用していない」
「都市救難に参加した分は」
「値引きした」
請求書の末尾には、値引き額が記載されていた。
0クレジット。
ジョウが笑う。
「何も引いてないぞ」
ハクは通信を切った。
MICA-13は、0という数字を見つめていた。
人口0。
質量0。
報酬0。
同じ数字でも、意味は違う。
「0は、存在しないことを示すとは限りません」
レイが答える。
「今ごろ分かったか」
「いいえ」
MICA-13は少し間を置いた。
「確認しました」
次の賞金事件
木星に地面はある? CASE 009「木星に立った男」
木星地表監査官、エリアス・ヴェン。
存在しないはずの「木星地表第0保管庫」から、一万八千トンの証拠を発送した男。
彼は現在、木星の雲の下へ降下中の気球都市《ガリレイ・ステップ》にいる。
高度が下がるほど、大気圧と温度は上昇する。
帰還可能高度まで、残り四十七分。
救難信号の中で、エリアスは繰り返していた。
「私は木星に立った」
「地面は、下にあるとは限らない」
SEASON 1 EVIDENCE
この捜査で確定したこと
- WITNESS 08:INERTIA
- 既知の力に対する加速度と振動周期から復元した18,412トン
- 中央記録を書き換えても消えない慣性公証筒の物理署名
読了記録は、この端末のブラウザーにだけ保存されます。
参考資料
- NASA「What is Microgravity?」
- NASA「Free Falling Objects」
- NASA Glenn Research Center「Newton’s Laws of Motion」
- NASA Science「Chapter 3: Gravity & Mechanics」
- NASA Life Sciences Data Archive「Space Linear Acceleration Mass Measurement Device (SLAMMD)」
- NASA「Mass Measurements aboard Space Station Skylab」
- NASA「Mass vs. Weight: Accelerating Mass」
- MICROSCOPE Collaboration / Physical Review Letters「MICROSCOPE Mission: Final Results of the Test of the Equivalence Principle」