SEASON 1 / CASE 003 / 賞金 人命 18,000 cr ほか
月面の足跡はなぜ消えにくい? CASE 003「歩いていない失踪者」
この記事のもくじ(15項目)
まずは、かんたんな答えから
月の足跡はなぜ消えないのか、かんたんに言うと
月にのこったアポロの足跡は、50年たっても消えていません。なぜ消えないのでしょうか。
理由は、月に空気がほとんどないからです。地球なら風がふき、雨がふり、水が流れます。海べにつけた足あとが波でならされるように、あとはすぐに消えてしまいます。月には、そのどれもありません。
だから細かい砂に押しつけられた形が、何十年もそのままのこるのです。
ただし、ずっとではありません。とても小さな石が高い速さでぶつかります。探査機がふき上げた砂もかぶさります。そうやって、少しずつくずれていきます。
つまり月の足跡は、消えないのではありません。消すものが、月にないのです。
この記事に出てくるナイトジャー号は、STAR WARRANT の物語です。レゴリス、微小隕石についての説明は、実際の観測と研究にもとづいています。
足跡は、基地へ帰ってきていた。
灰色の月面を七百メートルにわたって横切り、古い気密扉の前で途切れている。
基地から出ていく足跡はない。
気密扉も、一度も開いていない。
そして失踪した整備士は、その夜、月面を歩いていなかった。
先に結論:月には足跡を消す風や雨がほとんどない
月には、地球のような濃い大気がほぼありません。そのため、地表をならす風や雨、川の流れといった日常的な侵食が起こりません。月面に押し固められた足跡や車輪の跡は、地球上よりはるかに長く残ります。NASAの月周回衛星LROも、アポロ宇宙飛行士や月面車が数十年前に残した移動の跡を確認しています。[参考1]
足元を覆うのは、一般的な土ではなくレゴリスです。隕石衝突などで砕けた岩片、鉱物片、ガラス質の粒子を含む層です。角ばった粒子が押し固められると、靴底の形をよく残します。[参考2][参考3]
ただし、月の足跡も永遠ではありません。微小隕石の衝突、衝突で飛び散る物質、宇宙船の噴射、探査車や人間の活動によって、少しずつ崩れたり覆われたりします。[参考4]
今回の事件で最も危険だった思い込みは、
足跡が見つかったのだから、失踪した夜につけられたはずだ
というものでした。
月では、昨日の足跡と三年前の足跡が、同じ顔をして待っていることがあります。
人間より高い値段がついた箱
火星から月へ戻ったナイトジャー号のモニターに、二つの賞金依頼が同時に表示された。
MISSING PERSON SEARCH
TARGET:NICO RAU
REWARD:18,000
その下に、赤い企業回収命令が重なった。
CONFIDENTIAL PROPERTY RECOVERY
TARGET:ANALOG CORE T4-0
REWARD:96,000
ジョウ・カナタが、二つの金額を見比べた。
「人間一人が一万八千。古い記録箱が九万六千」
「企業の価値表では、珍しくない」
ミラ・ヴォスが依頼書を開く。
《TYCHO-4》は、マリウス丘陵に造られた旧救難基地だった。名称の《TYCHO》は所在地ではなく、旧月面救難局の第四管区コードに由来する。月面の亀裂と地下空洞を利用し、放射線や微小隕石から設備を守る実験施設でもあったが、三年前の事故以降は縮小されている。
現在の常駐者は四名。
失踪したニコ・ラウは、基地解体まで残された最後の整備士だった。
午前2時13分、居住区内の生体反応が消失。外部気密扉は二十七時間開いておらず、月面活動服もすべて格納庫に残っている。
それでも基地の西、七百メートル離れた地点から、正面気密扉へ向かう足跡が発見された。
添付写真の端に、別の宇宙船が映っていた。
細く、黒く、月面に突き刺さった刃物のような船。
船名は《ヴェスパー》。
ジョウが顔をしかめる。
「先客がいる」
MICA-13が人物照合を行った。
「星間賞金稼ぎ、ハク・ヴェイル。未解決事件回収率81パーセント。逮捕状二件は取り下げ済み。未払い罰金――」
「そこまで紹介しなくていい」
レイが月面への降下角度を変えた。
「急ぐぞ。あいつは人間より、高い方の賞金を選ぶ」
月に残された、一方通行の足跡
《TYCHO-4》の外には風がなかった。
地平線は鋭く、空は昼でも黒い。太陽は低く、岩もアンテナも何十メートルもの影を引いている。
灰色の平原に、足跡が一列だけ刻まれていた。
西から東へ。
基地へ向かって。
レイが最初の足跡へ近づくと、無線に知らない声が入った。
「踏むなよ。月では、証拠の方が人間より長生きする」
二十メートル先の岩陰から、白い宇宙服の男が立ち上がった。
ハク・ヴェイル。
表面装甲には所属章がなく、左肩だけが黒い。ヘルメットの反射板越しに、笑っているのが分かった。
「遅かったな、天城レイ」
「会ったことがあったか」
「ない。だが、死んだ女を追って賞金ゼロの船へ乗り込む男は、そう多くない」
レイの視線が鋭くなる。
「エナを知っているのか」
「質問は一件につき五百クレジット」
ハクは足元を指した。
「まずは無料の助言だ。足跡は嘘をつかない。だが捜査官は、足跡に勝手な時刻を書き込む」
足跡は基地の正面扉まで続き、そこで終わっていた。
扉から外へ向かう跡はない。
近くに月面車の車輪跡も、着陸船の噴射跡もなかった。
ニコの捜索隊は、これを「失踪者が何らかの方法で七百メートル先へ移動し、徒歩で基地へ戻った証拠」と判断していた。
だが正面気密扉の記録は、開閉ゼロを示している。
戻ってきた人間は、どこへ消えたのか。
そもそも、この足跡を残したのは本当にニコなのか。
月の「土」は、地球の土とは違う
月面を覆うレゴリスは、隕石や微小隕石が何十億年も地表を砕き続けてできた層です。
地球の土には、水、有機物、微生物などが含まれます。一方、月のレゴリスは主に岩石片、鉱物片、衝突や火山活動で生じたガラス質、細かな月のちりなどからできています。[参考2][参考3]
月には粒子の角を丸める風や流水がありません。NASAは、月の細かな粒子を、鋭く砕けたガラス片のように働く危険な物質として説明しています。粒子は宇宙服や機器に付着し、関節、シール、光学装置を傷めることがあります。[参考5]
その一方で、細かな粒子が押し固められ、互いにかみ合うため、靴底の筋や形がはっきり残ります。
「きれいな砂浜に近いと思っていた」
ジョウが足跡を拡大する。
「似ているのは、跡がつくところだけ」
ミラは答えた。
「月の砂は海で磨かれていない。濡れてもいない。でき方も、粒の形も違う」
月の重力は地球のおよそ六分の一です。歩く人の重さは小さくなり、跳ねるような移動がしやすくなりますが、身体や装備の質量そのものが消えるわけではありません。[参考6]
低重力で生まれる長い歩幅。
靴底の模様。
左右の踏み込み方。
この一列には、残した人物の癖まで閉じ込められていた。
一方通行の足跡を、どこから読む?
A:靴底の模様と、左右で違う歩幅
失踪者の月面活動靴と、本当に一致しているのか。B:気密扉のちり回収装置
最近誰かが月面から入ったなら、鋭いちりが残っているはずではないか。C:足跡の上にできた小さなクレーター
どちらが先にできたのかを調べれば、足跡の古さを判断できないか。
レイたちは三つの証拠を分担した。
ハクは依頼もされていないのに、四つ目の証拠を探し始めていた。
A:足跡は、失踪者の靴と一致しなかった
ジョウが格納庫から、ニコの月面活動靴を持ってきた。
現行型の靴底は六角形のブロック模様になっている。
外に残る足跡は、細い横筋が並ぶ旧式の救難用オーバーブーツだった。
「同じ大きさに見えたから、捜索隊が決めつけた」
「靴の規格が違う」
ミラは左右の跡を重ねた。
右足の踏み込みだけが浅い。右の歩幅が少し短く、着地するときにつま先が外側へ流れている。
レイは、その歩き方を知っていた。
エナ・ソレルは救難隊時代の事故で右足首を負傷していた。普段は気づかれないほどだったが、重い活動服を着ると右足をわずかにかばった。
火星の映像に残っていた歩き方とも一致する。
MICA-13が、靴底の中央に残る欠けた製造記号を旧装備台帳と照合した。
「救難用オーバーブーツR-12。三年前の緊急貸与先は、エナ・ソレルです」
歩き方だけではない。足跡を作った一足そのものが、エナに貸し出されていた。
「エナだ」
レイが言う。
ハクの無線から、短い笑いが聞こえた。
「ようやく追いついた」
「知っていたのか」
「確信は、売れるまで口にしない主義でね」
B:気密扉には、戻ってきた人間のちりがなかった
月のちりは、宇宙服にとって厄介な証人になる。
細かな粒子は機械的に引っかかるだけでなく、太陽風や紫外線による帯電の影響も受けます。月面を歩けば、靴、膝、手袋、生命維持装置の周囲に付着しやすくなります。[参考7]
《TYCHO-4》の正面気密扉には、入室者からちりを回収する電気式クリーナーが備わっていた。
ジョウが回収トレイを開く。
最後の作動記録は二十七時間前。
内部に残る粒子量も、その記録と一致した。もし足跡をつけた人物が今朝この扉から入っていれば、新しいちりが回収されていなければならない。
扉のデジタル記録だけが改ざんされた可能性は残る。
しかし、シールの摩耗、回収トレイの質量、内側床面のちり分布まで、最近の通過を否定していた。
足跡は扉へ到着している。
だが、その人物は失踪した夜に扉を通っていない。
C:足跡より新しいクレーターがあった
ミラは、列の途中に直径四センチほどの小さな穴を見つけた。
穴から飛び散った灰色の物質が、二つの足跡の縁に薄く重なっている。
地質の記録では、上に重なったものほど後にできたと判断できます。
つまり、
- 先に足跡がついた
- 後から小さな衝突が起きた
- 飛び散った物質が足跡の一部を覆った
という順番になる。
《TYCHO-4》の旧式衝撃センサーには、その小さな衝突が記録されていた。
発生は十九か月前。
「少なくとも、この足跡は今朝のものじゃない」
ミラが結果を共有する。
「十九か月より前にできている」
月面は静かに見えても、完全に変化しないわけではありません。現在も小さな天体が衝突し、新しいクレーターや飛散物を作ります。長い時間では、こうした衝突がレゴリスをかき混ぜ、古い地形や跡を少しずつ変えていきます。[参考4][参考8]
足跡が消えにくいからこそ、足跡の上に重なった新しい痕跡が年代の手がかりになった。
足跡の持ち主は、三年前のエナだった
三方向の調査で得た四つの証拠が、同じ結論を示していた。
- 旧式救難靴の横筋
- 右足をかばう歩き方
- 正面気密扉に新しいちりがないこと
- 十九か月前の衝突物が、足跡の上に重なっていること
一列の足跡は、失踪したニコのものではない。
三年前、火星から月へ戻ったエナ・ソレルが残したものだった。
では、なぜ足跡は七百メートル先から突然始まっているのか。
ハクが、足跡の始点で靴先を止めた。
何もない平地に見える。
しかし低い太陽が作る影の中に、人工的な直線が一本だけあった。
レイとジョウがレゴリスを払うと、古い円形ハッチが現れた。
表面には、CASE 002で見た月面基地の旧章が刻まれている。
TYCHO-4 / SUBSURFACE ACCESS 3
地下アクセス第三口。
エナは船から直接、基地の正面へ来たのではなかった。
月の地下へ続く古い施設から地上へ出て、七百メートルを歩き、あえて消えにくい足跡を残した。
「デジタル記録が消されると知っていた」
ミラが言う。
「だから、消えにくい月面そのものを記録媒体にした」
エナは逃げるだけなら、地下通路を使えばよかった。
それでも地上へ出た。
誰かが後から、自分が月へ来たことを証明できるように。
失踪者は、外ではなく基地の下へ向かった
基地へ戻ると、レイたちはニコの居室を調べた。
机の引き出しから、古い救難隊の認証票が見つかった。
ENA SOREL / ORBITAL RESCUE
CASE 002の予告どおり、エナのものだった。
その下には、紙に手書きされた基地断面図がある。
中央管理図から削除された区画が、赤い線で描き足されていた。
ARCHIVE ZERO
地表基地の下、かつて溶岩が流れてできたと考えられる大きな空洞。その一部を補強し、旧救難局がアナログ記録庫として使っていた。
月の穴や地下空洞は、温度変化、宇宙放射線、微小隕石などから人や設備を守る場所として研究されています。LROの観測では、月面の一部の穴が地下洞窟や溶岩チューブにつながる可能性も示されています。[参考9]
《TYCHO-4》は、その発想を早期に採用した基地だった。
ただし、アーカイブ・ゼロへ向かう内側の整備口は、三年前に封鎖されたことになっている。
ジョウが壁面パネルを外すと、中央システムにつながっていない機械式レバーが現れた。
レバーには新しい擦り傷がある。
壁の奥にある旧式装備庫も開いていた。中央在庫には接続されていない地下整備服が、一着だけなくなっている。
ニコは正面気密扉を通っていない。
基地内部から、地下整備口へ入ったのだ。
外へ出ていないのだから、彼の足跡がないのは当然だった。
その瞬間、MICA-13が警告を発した。
「地下区画で酸素信号を検出。残量推定、三十一分」
レイがレバーを引く。
三年間閉ざされていた扉が、月のちりを吐きながら開いた。
月の下にある、もう一つの夜
縦穴の底は、ヘルメットの照明でも見えなかった。
地表には太陽がある。
しかし地下空洞には、反射する大気も、地球の青い光も届かない。
レイたちはワイヤーで降下した。
最後にハクが続く。
「企業の箱を回収するだけじゃなかったのか」
レイが言う。
「九万六千の箱を持っている人間が、まだ生きているらしい」
「正直で助かる」
「嘘をつくほど安い賞金じゃない」
底には、古い軌道貨物レールが伸びていた。
かつて地下格納庫と地表基地を結んでいた搬送路だ。線路の上に、ニコの工具箱が浮くように転がっている。
月の重力は小さいが、工具箱の質量は変わらない。ジョウが勢いよく引いた箱は止まらず、彼の身体ごと前へ引っ張った。
「軽いのに、素直じゃないな」
「重さが減っても、動かしにくさまで六分の一になるわけじゃない」
ミラがワイヤーをつかむ。
遠くで赤い警告灯が点いた。
UNAUTHORIZED ARCHIVE ACCESS
SEALING SEQUENCE:13:00
MICA-13の表示灯が一度だけ乱れた。
「封鎖命令の署名は、私の旧式認証鍵と一致します。ただし、設定した記憶はありません」
十三分。
崩落防止用の隔壁が順番に閉じ、記録庫ごと地下区画を封鎖しようとしている。
「偶然にしては、数字の趣味が悪い」
ジョウが走り出した。
低重力のため一歩が長くなる。だが天井も床も不規則で、勢いをつけすぎれば身体は簡単に制御を失う。
最初の隔壁が降下した。
ハクが先に跳び、閉まりかけた隙間へ細い杭を撃ち込む。隔壁が一秒だけ止まった。
「一秒、八百クレジットだ」
「請求書は生還してから出せ」
レイたちは滑り込んだ。
次の区画で、床が途切れていた。
幅六メートルの亀裂。
下は、光を吸い込む空洞だ。
対岸から弱い生命反応が届く。
ニコは向こう側にいる。
ジョウが携帯アンカーを構えた瞬間、足元のレゴリスが崩れた。
ハクが腕をつかむ。
二人の身体が亀裂へ傾く。
レイは反対側へ跳び、月面救難用の推進器を一度だけ噴かした。六メートルを越え、対岸へ着地する。
着地の衝撃で細かな粒子がゆっくり舞い、すぐに弧を描いて落ちた。空気がないため、煙のように漂い続けることはない。
レイはアンカーを固定し、全員を渡らせた。
隔壁の残り時間は、四分二十秒。
「歩いていない失踪者」の居場所
アーカイブ・ゼロの扉の前で、ニコ・ラウは倒れていた。
右脚を落下した梁に挟まれ、活動服の酸素配管がつぶれている。
腕には、黒い記録媒体を抱えていた。
ANALOG CORE T4-0
人間より高い賞金がついた箱。
「先に……これを」
ニコが差し出す。
ハクが受け取ろうとしたが、レイは箱を押し戻した。
「先に脚だ」
「企業命令では、記録媒体を――」
「俺たちは企業の救難隊じゃない」
ジョウとハクが梁を持ち上げる。
月では梁の重さは地球より小さい。だが質量がなくなったわけではなく、動き始めた梁の勢いを止めるには力がいる。
ミラがニコを引き抜き、酸素の予備配管に接続した。
隔壁の残り時間、一分十一秒。
帰路の二つの扉は、すでに閉じている。
MICA-13が旧施設図を重ねた。
「地表アクセス第三口まで、非常貨物射出路が残っています」
「さっきの足跡の始点か」
「はい。ただし射出路の制動装置は、三年前から点検されていません」
ハクがニコを担架に固定する。
「安全な道は?」
「存在しません」
「それなら選ぶ手間が省けた」
四人と一人は、古い貨物台車へ飛び乗った。
ジョウが非常電源を直結する。
台車は音もなく加速した。
空気のない区画では車輪音は聞こえず、振動だけが靴底から身体を突き上げる。
最後の隔壁が閉じる。
黒い壁が背後から迫る。
台車は上向きの斜路へ入り、地表アクセス第三口へ駆け上がった。
「扉が開かなかったら?」
ミラが尋ねる。
ジョウは配線を握ったまま答えた。
「そのときは、月で一番高い記録箱になる」
ハッチが開いた。
白い太陽光が差し込み、台車は低重力の地表へ飛び出した。
数メートル浮き、レゴリスへ斜めに着地する。
灰色の粉が放物線を描いた。
三年前、エナの足跡が始まった場所だった。
今回は、そこから基地へ歩く必要はなかった。
ナイトジャー号の救難艇が、すでに上空へ来ていた。
ニコが地下へ入った理由
医療区画で意識を取り戻したニコは、エナの認証票を見つけた経緯を話した。
基地解体の準備中、壁の古い救難箱から落ちてきたのだという。
認証票には、肉眼では見えない微細な刻印があった。
足跡は消えていない。記録庫を開け。
ニコは外の一列を調べ、三年前のエナが地下アクセス第三口から歩いてきたと気づいた。
彼女は、中央システムの記録が改ざんされることを知っていた。
だから月面へ出た。
風雨で消されない足跡を残し、自分がTYCHO-4へ到着したことを、未来の捜査官へ伝えた。
ニコはその証言をたどり、基地内部の機械式整備口からアーカイブ・ゼロへ入った。
失踪した夜、彼は一度も月面を歩いていない。
見つかった足跡は、彼を追うためのものではなかった。
三年前から、レイを待っていた道標だった。
アナログ記録に残っていた、MICA-13の声
アナログコアは、中央ネットワークから独立した機械式記録装置だった。
デジタル映像はない。
残っているのは、圧力計の針の動き、振動、磁気テープに刻まれた音声だけ。
三年前の事故当日。
中央記録から消えた十三分間も、ここには残っていた。
ミラが再生速度を調整する。
ノイズの向こうから、エナの声が聞こえた。
「地上へ出る。足跡を残す」
別の声が答えた。
「その行動は、追跡者に位置を知らせます」
ナイトジャー号の全員が、その声を知っていた。
MICA-13自身の声だった。
「デジタル記録は消せる。でも月面は、簡単には消せない」
「了解しました。十三分後に中央時刻を再同期します」
「それまでに、軌道カプセルを出して」
「移送先を確認。地球低軌道・更生拘置環《ケストレル》」
「私は囚人じゃない」
「記録上は、そうする必要があります」
音声が途切れた。
MICA-13の表示灯が、不規則に明滅する。
「これは、私の音声特性と一致します」
レイはAIの筐体を見た。
「お前はエナを拘置所へ送ったのか」
「回答できません」
「知らないのか。言えないのか」
CASE 002と同じ質問だった。
MICA-13は数秒沈黙した。
「現在の私は、その行動を選択した私と同一であると証明できません」
人間なら逃げたと言われる答えだった。
だがレイには、AIが初めて怯えているように聞こえた。
そのとき、ハクがアナログコアから小さな複製片を抜き取った。
レイが気づくより早く、彼は《ヴェスパー》への帰還経路を開いている。
「何を持っていく」
「九万六千クレジット分の答え」
「企業に売るのか」
ハクは振り返った。
「エナには、昔一度だけ命を拾われた。代わりに大きな賞金を逃したがね。借りを返すまでは、売らない」
「どこへ行く」
「同じ場所だろう」
直後、全船の賞金掲示板へ緊急警報が届いた。
ORBITAL DISASTER BOUNTY
TARGET:CORRECTIONAL RING KESTREL
STATUS:ORBIT DECAY
ESTIMATED REENTRY:08:42:16
地球低軌道の更生拘置環《ケストレル》が、制御を失って落下を始めていた。
月―地球ラグランジュ・ゲートを最短航路で抜けても、接触まで約五時間。現場で救助に使える時間は、三時間ほどしかない。
収容者二百八十六名。
職員四十三名。
そして三年前、エナ・ソレルが囚人として送り込まれた記録がある。
ハクの船が先に月面を離れた。
レイは追跡航路を入力する。
「賞金は早い者勝ちだ」
無線にハクの声が届く。
レイはナイトジャー号を上昇させた。
「救難は競争じゃない」
「だから、お前はいつも遅い」
月面に残った一列の足跡が、見る間に小さくなっていく。
エナが三年前に歩いた道は消えていない。
だが、その先にいるかもしれない人間を救う時間は、あと八時間しか残っていなかった。
月面の足跡は、どれくらい残る?
「月の足跡は永遠に残る」と説明されることがあります。しかし正確には、地球上より非常に長く残りやすいと考えるのが適切です。
主な理由は次のとおりです。
- 地球のような濃い大気がほぼない
- 足跡をならす風や雨がない
- 液体の水による侵食がない
- 植物や動物による表面のかく乱がない
- 細かなレゴリスが靴底の圧力で押し固められる
LROは、アポロ15の宇宙飛行士や月面車が残した移動の跡を、約39年後にも撮影しました。[参考1]
一方で月面は、完全に停止した世界ではありません。
- 微小隕石や小天体の衝突
- 衝突による飛散物
- 長期間の宇宙風化
- 探査機の着陸・離陸時の噴射
- 月面車や将来の居住活動
などによって、足跡は崩れたり覆われたりします。[参考4][参考8]
「何年で完全に消える」と一律には言えません。場所、周囲の衝突、将来の活動によって条件が大きく異なるためです。
月面の足跡が証明したこと
区分表示:ナイトジャー号、月面基地TYCHO-4、人命一万八千・記録九万六千クレジットの令状、地下に封じられた失踪者はSTAR WARRANTの物語です。月にほぼ濃い大気がなく風雨の侵食が起きないこと、レゴリスに押し固められた足跡が地球上よりはるかに長く残ること、微小隕石の衝突や噴射で少しずつ崩れることは現実の観測であり、作中の基地と捜査記録とは区分します。末尾のHYPOTHESIS欄では、作中の真相ではなく、観測と実証が続く科学上の問いだけを扱います。
REAL SCIENCE 現実の科学
- 月には地球のような風雨がほぼなく、足跡が長く残りやすい
- 月の表面は、細かな岩片やガラス質などを含むレゴリスで覆われている
- レゴリスの粒子は角ばり、押し固められると靴底の形を残しやすい
- 月の重力は地球のおよそ六分の一だが、物体の質量はなくならない
- 足跡は永遠ではなく、微小隕石、飛散物、宇宙船、探査活動などで変化する
- 新しい衝突物が古い跡の上に重なれば、痕跡の前後関係を判断できる
- 月の穴や地下空洞は、将来の探査拠点や避難場所として研究されている
STORY 作中設定と未回収の事件
- 西暦2319年の旧救難基地《TYCHO-4》
- 地下記録庫アーカイブ・ゼロと貨物射出路
- ニコ・ラウ失踪事件
- ハク・ヴェイルと宇宙船《ヴェスパー》
- エナが足跡を物理的な証言として残した計画
- MICA-13による中央時刻の再同期
- 更生拘置環《ケストレル》と落下警報
- エナが囚人記録で《ケストレル》へ移送された理由と、実際に到着したかどうか
- MICA-13が自ら協力したのか、誰が記憶を消したのか
- 落下する拘置環にエナがいるのか、ハクがエナへ負う借りの内容
HYPOTHESIS 観測と実証を待つ科学上の問い
月面の足跡について、よくある疑問
月には本当に風がまったくない?
月には地球のような濃い大気と天候がないため、地表を吹き続けて足跡を消す風はありません。ただし、月の周囲には非常に希薄な外気圏があり、太陽風、帯電、衝突などによる粒子の移動は起こり得ます。「何も動かない」という意味ではありません。[参考7]
アポロ宇宙飛行士の足跡は、今も残っている?
アポロ着陸地点では、宇宙飛行士や月面車が移動した跡がLRO画像で確認されています。ただし、周回軌道から個々の靴跡すべてを細部まで見分けられるという意味ではありません。[参考1]
月の砂は、なぜ靴や機械へ付きやすい?
細かな粒子が角ばっていて機械的に引っかかりやすいことに加え、太陽風や紫外線による帯電も関係します。月のちりは、宇宙服の関節やシール、視界、機器の熱制御などに悪影響を与える可能性があります。[参考5][参考7]
月面では、地球より六倍高く跳べる?
月の重力は地球のおよそ六分の一なので、同じ初速度で跳べれば、より高く長く滞空できます。ただし、重い宇宙服の動かしにくさ、姿勢制御、安全性があるため、実際の移動が単純に六倍楽になるわけではありません。[参考6]
足跡の深さだけで、誰が歩いたか分かる?
現実には、足跡の深さは体重だけでなく、靴底面積、歩き方、速度、斜面、レゴリスの密度など多くの条件に左右されます。事件のように人物を特定するには、靴底模様、左右差、歩幅、他の記録など複数の証拠を組み合わせる必要があります。
次の賞金事件
人工衛星は、なぜ地球へすぐ落ちない? CASE 004「落下を続ける監獄」
地球の周りを回る更生拘置環《ケストレル》は、すでに落ち続けている。
本来、人工衛星も宇宙ステーションも、地球へ向かって落下しながら、地表を外し続けることで軌道を回る。
だが《ケストレル》は速度を失い、地球の大気へ近づき始めた。
残り八時間。
ナイトジャー号とハクの《ヴェスパー》は、二百八十六人の収容者を救うため、落下する監獄へ向かう。
ところが救難要請の送信者欄には、三年前に収容され、その二日後に死亡した人物の名前が表示されていた。
ENA SOREL
SEASON 1 EVIDENCE
この捜査で確定したこと
- エナとMICA-13の過去の会話(アナログ音声)
- エナの《ケストレル》移送記録
読了記録は、この端末のブラウザーにだけ保存されます。
参考資料
- NASA Science「10 Cool Things NASA's Lunar Reconnaissance Orbiter is Teaching Us About the Moon」
- NASA Science「What Is Lunar Regolith? The Moon's Surface Explained」
- NASA Science「Moon Composition」
- NASA Science「Why Study Moon Craters?」
- NASA Science「What Hazards Are Caused by Lunar Regolith?」
- NASA Science「Moon Facts」
- NASA「Heliophysics Science and the Moon」
- NASA Science「New Craters on the Moon」
- NASA「NASA's LRO Finds Lunar Pits Harbor Comfortable Temperatures」
- NASA TechPort「Electrostatic Dust Lofting via Photoionization under Artificial Lunar Gravity」