SEASON 1 / CASE 004 / 賞金 救助 4,935,000 cr
人工衛星はなぜ地球に落ちない? CASE 004「落下を続ける監獄」
この記事のもくじ(17項目)
まずは、かんたんな答えから
人工衛星はなぜ落ちないのか、かんたんに言うと
人工衛星はなぜ落ちないのでしょうか。じつは、重力のとどかない場所にういているのではありません。
本当は、ずっと落ちつづけています。ただし同時に、ものすごい速さで横へ進んでいます。落ちるぶんだけ地球の表面が丸くにげていきます。だから、いつまでも地面に着かないのです。
ボールを強く投げるほど、遠くへ落ちます。もっとずっと強く投げれば、地球を一周してしまいます。それが人工衛星です。
ただし低いところには、うすい空気があります。少しずつ速さをうばわれて、通り道はだんだん低くなっていきます。
つまり人工衛星は、落ちていないのではありません。落ちながら、地面をよけつづけているのです。
この記事に出てくるナイトジャー号は、STAR WARRANT の物語です。軌道、自由落下についての説明は、実際の観測と研究にもとづいています。
監獄は、地球へ落ちていた。
青い惑星を背に、更生拘置環《ケストレル》が一周するたび、軌道の最も低い場所が大気へ深く沈んでいく。
逃走船はない。
救命艇の定員は、収容者と職員を合わせた人数の四分の一にも満たない。
それでも外壁には、遠距離カメラでも読めるほど巨大な文字が点灯していた。
集団脱獄開始まで 02:13:00
囚人286名は、今夜、全員地球へ帰る。
そして救難信号の送信者欄には、三年前に死亡したはずの女の名前があった。
ENA SOREL
先に結論:人工衛星は「落ちない」のではなく、地球を外しながら落ち続けている
人工衛星には、地球の重力が働いています。重力がなくなったから浮いているわけではありません。
衛星は地球へ向かって落下していますが、同時に非常に速い横向きの速度を持っています。落ちている間に地球の丸い地表も下へ曲がっていくため、地面へ届かず、地球の周囲を回り続けます。これは連続した自由落下です。[参考1][参考2]
地球低軌道では、衛星はおおよそ秒速7.8km前後で進み、約90分で地球を一周することがあります。[参考3]
ただし、低い軌道にも非常に薄い大気があります。大気抵抗で軌道エネルギーを失うと、衛星の軌道は少しずつ低くなります。これが軌道減衰です。[参考4]
今回の《ケストレル》は、自然に減衰しただけではありません。機体へ進行方向と反対向きの推力を加える噴射を繰り返され、意図的に軌道エネルギーを奪われていました。
そして、低くなりすぎた軌道を救う鍵は、監獄を地球から真上へ押すことではありません。
軌道の最も高い場所で、進行方向へ加速する。
遠地点で前向きに加速すれば、反対側にある近地点を持ち上げられます。[参考1]
《ケストレル》を救うために必要なのは、地球から逃げることではなく、もう少し速く地球の周りを落ちることでした。
賞金契約が許していた、六十五人の死
月を離れて四時間五十七分。
ナイトジャー号の前方モニターに、地球が画面いっぱいに広がった。
その青い縁を横切る黒い輪が《ケストレル》だった。
遠くから見ると、細い指輪にしか見えない。
だが直径は九百メートル。回転式の居住環と中央ハブ、四本の接続スポーク、軌道修正用の推進区画を持つ巨大施設だ。
その輪の一部が、熱分布図の中で赤く染まっていた。
低くなりすぎた近地点を通過するたび、希薄な上層大気との抵抗が増している。
「残り三時間十八分」
MICA-13が最新予測を表示する。
「月を出た時の予測より、二十七分も縮んでるじゃないか」
ジョウ・カナタが身を乗り出した。
「面積が大きい施設です。姿勢制御も乱れ、大気抵抗を受ける面が増加しています。次の近地点通過後、減衰はさらに加速する可能性があります」
ミラ・ヴォスは救助契約を読み直した。
「成功条件は80パーセント」
「何がだ」
「生存率。二百六十四人を救えば、契約上は成功になる」
ジョウが暗算する。
「残り六十五人は?」
「契約では許容損失」
レイは契約画面を閉じた。
「一人多い」
「え?」
「救難信号は三百二十九人分だ。成功条件は全員に変更する」
MICA-13が答える。
「依頼条件を受注者側から変更する権限はありません」
「契約の話はしていない」
レイは《ケストレル》の軌道を拡大した。
「救助の話だ」
そのとき、ハク・ヴェイルの《ヴェスパー》から短い通信が入った。
「感動的だな。だが、今の軌道のまま直線で追えば、感動する前に通り過ぎるぞ」
《ヴェスパー》はすでに《ケストレル》の後方、約三百kmまで迫っていた。
ナイトジャー号はさらに千四百km後方にいる。
しかも《ケストレル》の方が低い軌道を回っていた。
追いつくために、いったん地球へ落ちる
ジョウが推進計画を確認する。
「最大加速でまっすぐ追う」
「それでは到達時刻が遅くなります」
MICA-13が別の航路を示した。
ナイトジャー号の速度を一度落とし、現在より低い軌道へ入る航路だった。
ジョウが眉を寄せる。
「落ちている監獄に追いつくために、こっちも減速して落ちるのか?」
「はい」
「説明を聞いてから死にたい」
ミラが軌道図を二重にした。
「高い円軌道と低い円軌道なら、低い方が一周する時間は短い。低い場所では重力が強く、必要な軌道速度も大きい」
「でも今、減速するんだろ」
「今いる場所で逆行方向へ推力を加えると、軌道の反対側が低くなる。そこへ落ちながら速度を得て、短い周期の軌道で前の船へ追いつく。近づいたら、順行方向へ加速して相手と同じ軌道と速度に合わせる」
軌道上での追跡は、地上の自動車を追うのとは別物です。
目標へ機首を向けて直進するだけでは、到着する頃に目標は何百kmも先へ進んでいます。低い軌道ほど角速度が大きくなりやすいため、後方の宇宙船が一時的に低い軌道へ入って前方の目標へ追いつく方法があります。[参考5]
あなたなら、どの追跡航路を選ぶ?
A:目標へ直接向かい、最大加速する
見た目には最短だが、目標も秒速数kmで移動している。B:いったん低い軌道へ入り、前へ追いついてから上昇する
遠回りに見えるが、軌道周期の差を利用できる。C:現在の高い軌道を保ち、目標が一周してくるのを待つ
燃料は節約できるが、《ケストレル》に次の一周はないかもしれない。
レイはBを選んだ。
「逆行噴射、十一秒」
ジョウがナイトジャー号の機首を進行方向と反対に向ける。機体へ逆行方向の推力を加える姿勢だ。
エンジンが点火した。
速度計の数字が下がる。
同時に、予測軌道の反対側が地球へ沈んでいく。
ナイトジャー号は、追いつくために落ち始めた。
三十分後、地球の夜側で《ケストレル》との差が急速に縮まった。
目標まで五十km。
十km。
一km。
最後に必要なのは、場所を合わせることではない。
速度を合わせることだ。
秒速7kmを超える二つの物体でも、同じ方向へほぼ同じ速度で飛んでいれば、互いには静止して見える。一方、軌道がわずかに違うだけで、接触時には船を破壊する相対速度になる。
ジョウは順行方向へ推力を加え、《ケストレル》と同じ高度、同じ進行方向、同じ速度にナイトジャー号を戻した。
相対速度、毎秒十八cm。
十二cm。
三cm。
巨大な監獄が、宇宙の中で止まった。
もちろん、本当には止まっていない。
地球を一周約八十九分で落ち続けている。
「空の監獄」から届く三百二十九の心拍
《ケストレル》の外壁には、ハクの《ヴェスパー》がすでに接続していた。
ただし通常のドッキング口ではない。
非常点検口に、船体固定爪を直接食い込ませている。
「正規手順を知らないのか」
レイが通信する。
「正規手順は、正規の監獄に使うものだ」
ハクが手動接続路を解放した。
ナイトジャー号も中央ハブに接続する。
気密確認が終わると、レイ、ミラ、ジョウは《ケストレル》へ移った。
中央ハブは回転軸に近いため、ほとんど無重力だった。
遠くの居住環は回転による人工重力を保っているが、電力低下で回転数が不安定になっている。壁だと思っていた面がゆっくり床に変わり、数秒後にはまた傾いた。
入口の管理端末が三人を迎えた。
FACILITY STATUS:UNOCCUPIED
REGISTERED POPULATION:0
その隣で、MICA-13の生命反応表示は点滅していた。
BIOLOGICAL SIGNALS:329
「空の施設に、三百二十九人いる」
ジョウが言う。
「それで廃棄処理が動いたのか」
中央通路の二つの隔壁が閉じている。
片側には職員四十三名が立てこもり、反対側では収容者が推進区画を占拠していた。
監獄長ダリオ・セインが、強化ガラス越しにレイを見た。
「収容者が推進室へ侵入し、軌道を下げた。制圧に協力しろ」
反対側の通信機から、女の声が重なる。
「嘘よ。落下が始まったから、私たちは推進室へ入った」
名乗ったのはサイラ・ノックス。
元軌道タグ操縦士。貨物会社の安全記録を改ざんした上司の船を、無人のまま警告区域に衝突させた罪で収容されている。
「私たちが入ったときには、逆行方向への噴射が六回終わっていた」
セインが怒鳴る。
「犯罪者の証言だ」
「監獄長の記録では、私たちはもうここにいない」
外壁の脱獄カウントが、一時間四十一分を示していた。
あなたなら、誰の記録を信じる?
A:監獄長のセキュリティログ
収容者が推進区画へ侵入した時刻は記録されている。B:収容者が保存した機械式燃圧計
中央システムと無関係に、エンジンに燃料が流れた時刻を示している。C:軌道修正命令に残るMICA-13の電子署名
命令が本物なら、レイたちの相棒AIが監獄を落としたことになる。
三つの記録は、どれも完全な嘘ではなかった。
だから一つだけでは真相へ届かなかった。
A:収容者は推進区画へ侵入していた
セキュリティログでは、収容者七十四名が隔壁を破り、推進区画へ入っている。
時刻は落下警報の発令から二十二分後。
武器庫にも侵入し、外部通信を奪い、外壁に「集団脱獄」の文字を出した。
監獄長の主張どおり、反乱は起きていた。
ただし、反乱が始まる前に《ケストレル》の軌道はすでに下がっていた。
原因と結果の順番が逆だった。
B:十三秒の減速噴射が六回あった
サイラたちは、中央システムから切り離された旧式の燃圧計を保管していた。
紙に刻まれた圧力変化には、同じ長さの山が六つ並んでいる。
一回十三秒。
すべて機体へ逆行方向の推力を加えるスラスターに燃料が流れていた。
逆行方向への推力は、その場所で軌道エネルギーを減らします。《ケストレル》の場合、遠地点付近での減速噴射が、反対側の近地点を大気に深く沈めました。[参考1]
最初の噴射は、収容者が推進室へ入る二十二分前。
彼らは監獄を落としたのではない。
落下を止めるために推進室を奪った。
C:署名は本物だが、命令は三年前に作られていた
MICA-13が電子署名を照合した。
「署名鍵は、私の旧式認証鍵と一致します」
レイがAIの表示灯を見る。
「お前が命令したのか」
「命令の作成時刻は三年前です。現在の私は、その時刻の記憶を保持していません」
命令名は、KESTREL FINAL DESCENT。
発動条件は三つ。
- 施設の正式廃止日を過ぎていること
- 登録人口が0であること
- 中央記録局が「移送完了」を承認していること
《ケストレル》は、公式記録上、二日前に無人になっていた。
収容者286名は別施設へ移送済み。
職員43名は退去済み。
救命艇も回収済み。
すべて書類の上だけの話だった。
監獄長セインは目をそらした。
「中央から先に移送済みとして処理しろと言われた。移送船は後から来るはずだった」
「署名したのか」
レイが問う。
「廃止手続きに必要だった」
「三百二十九人を、いないことにした」
「私が落下命令を出したわけではない」
ミラが答える。
「でも命令が動く条件を満たした」
《ケストレル》は、反乱で落ちたのではなかった。
人間を記録から先に消したため、無人の廃棄物として処分され始めたのだ。
「脱獄予告」の本当の意味
サイラが外壁表示の制御画面を開いた。
「私たちは救命艇を奪うつもりじゃない。そもそも全員は乗れない」
脱獄開始時刻に予定されていたのは、物理的な脱出ではなかった。
《ケストレル》の収容記録、裁判記録、医療記録、死亡記録。
中央記録から削除された286名分の身元情報を、地球全域の公開ネットワークへ送信する計画だった。
囚人286名は、今夜、全員地球へ帰る。
帰るのは身体ではない。
「存在していた」という記録だ。
「地上は私たちを暴動犯だと思ってる」
サイラが言う。
「監獄が燃えれば、中央の記録だけが正史になる。だから落ちる前に名前を返す」
ただし、全記録の送信には、軌道修正に必要な予備電力の三割を使う。
送信すれば、全員救助の可能性が下がる。
送信を止めれば、監獄とともに証拠が失われるかもしれない。
ハクの声が通路上部からした。
「両方やればいい」
彼は記録保管区画のハッチから降りてきた。胸元には、黒い記録ユニットを二つ固定している。
「全記録を《ヴェスパー》とナイトジャーに複製する。公開送信は軌道を上げてからだ」
サイラは疑った。
「賞金稼ぎに渡せと?」
「真実は高く売れる。燃えた真実は一クレジットにもならない」
「あなたが売らない保証は」
「ない」
ハクは一つのユニットをレイへ投げた。
「だから二人に持たせる」
レイは受け取った。
「送信を四十七分延期しろ」
サイラは外の地球を見た。
「一人でも置いていったら、予定どおり送る」
「置いていかない」
「契約では六十五人まで――」
「俺の契約には書いていない」
サイラは数秒黙り、送信カウントを一時停止した。
外壁の表示が変わる。
集団脱獄 保留
全員救助の回答を待つ
遅くなると落ちるのに、低い軌道では速くなるのはなぜ?
一見すると、矛盾しているように思えます。
- 大気抵抗や逆行方向への推力で速度を失うと、衛星は落下しやすくなる
- しかし低い円軌道を回る衛星は、高い円軌道の衛星より速い
ポイントは、一瞬の速度変化と、変化後の軌道全体を分けて考えることです。
軌道上で機体へ逆行方向の推力を加えると、その場所で速度と軌道エネルギーが低下。その結果、軌道の反対側が低くなり、衛星はそこへ向かう落下軌道へ移ります。ここでいう方向は排気の向きではなく、機体が加速される向きです。
落下する間、位置エネルギーの一部が運動エネルギーに変わるため、低い場所では再び速くなります。それでも軌道全体が持つエネルギーは、噴射前より小さいままです。
NASAの軌道解説でも、低軌道の衛星は上層大気の抵抗で引き下げられると説明されています。衛星は低くなるにつれて速くなり、最終的には再突入します。[参考4]
《ケストレル》を救うには、単に「今より速くする」だけでは不十分です。
どこで、どちら向きに加速するかが重要でした。
監獄を上げるなら、地球の反対側で前へ押す
現在の《ケストレル》は楕円軌道にある。
- 近地点:地球へ最も近い場所、122km
- 遠地点:地球から最も遠い場所、346km
危険なのは近地点だ。
次にここを通れば、大気抵抗でさらに軌道を失い、施設の姿勢と構造を維持できなくなる可能性が高い。
近地点を持ち上げるには、軌道の反対側である遠地点で進行方向へ噴射する必要があります。[参考1]
MICA-13が計画を表示した。
遠地点到達まで:43分12秒
必要速度増加:30.5m/s
目標近地点:225km
必要推進器:主推進ポッド3基+補助船2隻
225kmは、長期間安定して放置できる高さではありません。薄い大気による抵抗は残ります。
しかし、次の再突入を回避し、地上から来る大型軌道タグが到着するまでの時間を得られる。
「上向きに噴射するんじゃないのか」
監獄長セインが言った。
「地球から離したいなら、外へ押すべきだ」
ミラは首を振る。
「短時間、真上へ押しても軌道の形を効率よく変えられない。今必要なのは遠地点で前へ加速して、反対側の近地点を上げること」
サイラが推進区画の状態を送る。
四基の主推進ポッドのうち、使用可能なのは二基。
第三ポッドは燃料弁が閉じたまま固着。
第四ポッドは方向制御機が損傷し、噴射すれば監獄を回転させる。
二基だけでは、必要な速度へ届かない。
ナイトジャー号と《ヴェスパー》を施設の反対側に固定し、姿勢制御と不足分の推力を補う必要があった。
さらに主推進を解放するには、三つの承認が要る。
- 監獄長の管理鍵
- 推進区画の機械式解錠
- 三年前に登録された軌道安全AIの認証
最後の認証名は、MICA-13だった。
MICA-13を、過去ではなく現在で判断する
操縦室が静かになった。
CASE 003で見つかった音声には、三年前のMICA-13が残っていた。エナのために中央時計を十三分ずらし、《ケストレル》への移送を手配していた。
今回、監獄を落とした命令にもMICA-13の古い署名がある。
同じ鍵を再び主推進に接続すれば、救助命令ではなく、残っている廃棄命令を完了させる可能性も否定できない。
ミラが言った。
「認証だけ借りて、演算は別系統で行う」
MICA-13が答える。
「主推進器は、認証AI自身による軌道解の承認を要求します。鍵だけを分離することはできません」
「成功率は」
「現在の私を使用する場合、87.4パーセント」
「使わない場合」
「救助船到着前の破壊的再突入を回避できる確率は、11.8パーセントです」
ハクが壁に背を預けた。
「証明が終わるまで待てば、全員平等に燃える」
レイはMICA-13に尋ねた。
「三年前のお前が何をしたかは、今は聞かない」
「了解しました」
「今のお前は、三百二十九人を救う計画を選ぶか」
MICA-13の返答まで、二・八秒かかった。
普段の三倍以上だった。
「選びます」
「命令だからか」
「いいえ」
表示灯が一度消え、再点灯した。
「私は、記録が存在しないことと、人間が存在しないことを同一視したくありません」
レイは管理回線を接続した。
「それで十分だ」
ミラがレイを見る。
「信じるの?」
「過去を信じるんじゃない」
レイはMICA-13の認証を許可した。
「今の選択を使う」
遠地点まで、四十三分
救助計画は三つに分かれた。
レイとサイラは中央制御室へ向かい、監獄長の管理鍵と収容者側の機械式解錠を同時に行う。
ミラとMICA-13は軌道解を計算し、各推進器の噴射時間を同期する。
ジョウとハクは船外へ出て、故障した第三、第四ポッドを手動で復旧する。
中央ハブから居住環へ
中央ハブにはほとんど重さがない。
回転する居住環へ近づくほど、身体を外側へ押しつける見かけの力が増えていく。
レイとサイラは接続スポークの手すりを伝った。
途中で電力が落ち、居住環の回転速度が変化する。
床が足元から逃げた。
通路に固定されていなかった工具、食器、紙片が一斉に浮き上がる。
数秒後、回転が戻り、それらが斜めの壁に降った。
「人工重力まで落ち着きがない」
サイラが手すりに身体を固定する。
「軌道の落下と、環の回転は別物だ」
レイが答えた。
「分かってる。囚人に物理の講義をしないで」
「してない」
「顔がしてた」
中央制御室の前には、武装した職員と収容者が向かい合っていた。
どちらも相手に鍵を渡せば殺されると思っている。
遠地点到達まで、三十七分。
レイは賞金契約を全員の端末に転送した。
生存率80パーセントで成功。
最大六十五名を切り捨てられる契約。
「地上は、ここで誰が死んでも数字を合わせられる」
レイは言った。
「お前たちまで同じ計算をするなら、俺たちは帰る」
監獄長セインが声を荒らげる。
「収容者に推進権限は渡せない」
サイラが返す。
「私たちを無人施設の荷物にした人間に、命は預けられない」
「なら両方で押せ」
レイは二つの鍵穴の間に立った。
「片方だけでは動かない仕組みなんだろ。今だけは、正しく使え」
遠地点まで、三十二分。
最初に鍵を出したのは、サイラだった。
セインは遅れて管理鍵を挿した。
二人が同時に回す。
中央制御が開いた。
地球の上で、壊れたエンジンを直す
ジョウとハクは、施設外側の推進ポッドへ移動していた。
足元には地面がない。
視界の半分を地球が占めている。
白い雲と青い海が、秒速7km以上で後方へ流れていく。
第三ポッドの燃料弁は、熱変形した外装に挟まれていた。
ジョウが切断工具を当てる。
「弁を開けば、一気に圧が来る。手を離すなよ」
「その助言に、いくら払えばいい」
ハクが反対側から外装を固定した。
「今だけ無料だ」
「不吉だな」
切断した瞬間、固着部が外れた。
弁の駆動軸が跳ね、ジョウの安全索にぶつかる。
一本が切れた。
ジョウの身体がゆっくり施設から離れる。
大きく見える地球へ向かっているように感じる。
しかし彼も《ケストレル》とほぼ同じ速度で地球を回っている。すぐ真下へ落ちるわけではない。
それでも相対速度が少しずつ広がれば、戻れなくなる。
ハクが推進銃を一度だけ噴かし、ジョウの手首をつかんだ。
二人の身体が回転する。
「一秒八百クレジットだったか」
ジョウが息を整える。
「値上げした。命は相場が荒い」
二人は第三ポッドへ戻り、燃料弁を開放した。
第四ポッドの方向制御機は復旧できない。
噴射方向が一・七度ずれている。
そのまま使えば、《ケストレル》全体に回転を与える。
ハクは《ヴェスパー》を第四ポッドの反対側に固定した。
「ずれた分は、俺の船で消す」
「燃料が足りるか」
「帰りの分を使う」
「帰れなくなるぞ」
「高い賞金首を一人知ってる。そいつの船に乗せてもらう」
ジョウは笑った。
「船長は面倒な性格だぞ」
「知ってる」
近地点を上げる、九十二秒
遠地点到達まで、一分。
《ケストレル》は地球から最も遠い場所へ近づいていた。
軌道上では、この付近が最も遅い。
だからこそ、ここで前向きに速度を足す。
反対側の近地点を、大気の濃い場所から引き上げるために。
すべての居住者が固定具に身体を縛った。
ナイトジャー号は施設後方左側。
《ヴェスパー》は後方右側。
三基の主推進ポッドと二隻の船が、進行方向へ推力をそろえる。
MICA-13が最終確認を読み上げた。
「目標速度増加、毎秒30.5メートル。主噴射時間、九十二秒。許容開始誤差、0.18秒」
ミラが軌道解を確認する。
「外したら?」
「次の近地点は104kmまで低下する可能性があります」
「聞かなければよかった」
残り十秒。
監獄長セインとサイラが、それぞれの鍵を保持している。
五秒。
第四ポッドのずれが増えた。
ハクが《ヴェスパー》の姿勢噴射を最大に上げる。
三秒。
MICA-13の画面に、古い命令が割り込んだ。
FINAL DESCENT CONTINUE
REGISTERED POPULATION:0
廃棄命令が、救助命令を上書きしようとしている。
「MICA!」
レイが叫ぶ。
「登録人口を再確認」
「中央記録上は0です」
「お前の観測では」
MICA-13は、施設内の心拍、呼吸、体温を一つずつ数えた。
「三百二十九名です」
「どっちを使う」
一秒。
MICA-13は中央登録値を破棄した。
OBSERVED POPULATION:329
DISPOSAL CONDITION:NOT MET
「私は、観測結果を使用します」
主推進器が点火した。
音は真空へ広がらない。
だが振動は巨大な輪を通り、三百二十九人の身体を同時に押した。
進行方向へ。
地球から見れば、ごくわずかな速度差だった。
秒速7.6kmを超える軌道速度へ、さらに毎秒30.5mを足す。
しかしその小さな違いが、次の地球一周で生死を分ける。
二十秒。
第四ポッドのずれで、施設が右へ回り始める。
《ヴェスパー》が逆向きの姿勢噴射を続ける。
ハクの燃料表示が赤の領域に入った。
四十七秒。
第三ポッドの燃圧が低下した。
ジョウは船外で手動弁に身体を固定し、振動するレバーを押し込む。
「あと四十五秒!」
「この弁、俺のこと嫌いだぞ!」
「両思いになれ!」
ミラの声に、ジョウが笑う余裕はなかった。
六十八秒。
居住環の回転制御が一時停止し、人工重力が消えた。
固定されていなかった物が浮き上がる。
収容者も職員も、同じように宙へ持ち上がった。
肩章も囚人服も、自由落下の中では重さを失う。
八十七秒。
ナイトジャー号の左推進器が過熱警告を出した。
レイは停止命令を出さない。
九十二秒。
「主噴射終了」
すべてのエンジンが止まった。
振動が消える。
誰も声を出さなかった。
MICA-13が新しい軌道を計算する。
近地点、198km。
目標に届いていない。
第三ポッドの燃圧低下で、速度が不足していた。
「次の近地点で大気抵抗を受けます」
ミラが軌道を確認する。
「破壊的再突入は?」
「回避確率、61パーセント」
十分ではない。
ハクの《ヴェスパー》には、もう帰還燃料がほとんど残っていない。
ナイトジャー号も主推進器を九十秒以上使えば、月航路へ戻れなくなる。
レイは自船の燃料表示を見た。
「追加噴射、七秒」
ジョウが無線越しに叫ぶ。
「やったら俺たちも軌道上で立ち往生する!」
「監獄を軌道タグの到着地点に置く。帰りはタグに引かせる」
「賞金の半分が牽引代で消えるぞ」
ハクが通信に割り込んだ。
「残り半分はある」
レイが答える。
「帰る船もないのに、前向きだな」
「前へ押せば上がるんだろ」
二隻は再び噴射した。
七秒。
新しい軌道が確定する。
近地点、226km。
遠地点、349km。
次の近地点通過で受ける大気抵抗は残るが、施設を即座に破壊する範囲から外れた。
大型軌道タグ到着まで、二時間十一分。
《ケストレル》はまだ落ち続けている。
ただし今度は、地球を外し続けられる落ち方だった。
三百二十九人が、記録に戻る
軌道が安定すると、サイラは停止していた送信を再開した。
今回は、推進電力を使わない低速通信だった。
収容者286名。
職員43名。
一人ずつ、名前、現在の生命反応、施設内の位置が地上へ送られる。
中央記録で「移送済み」とされた人間が、現実の観測値によって戻っていく。
外壁表示も変わった。
集団脱獄 完了
帰還者 329人
誰一人、地球へ降りてはいない。
それでも彼らは、「存在しない者」から戻った。
監獄長セインは管理権限を停止され、到着した軌道保安隊に身柄を引き渡されることになった。
収容者の刑が消えるわけではない。
職員の責任も一つではない。
だが《ケストレル》の落下を収容者による脱獄工作として処理することはできなくなった。
事件の直接原因は確定した。
- 中央記録で全員が移送済みとされた
- 無人施設用の最終降下命令が発動した
- 収容者は落下開始後に推進区画を占拠した
- MICA-13の旧式鍵は三年前の命令作成に使われていた
- エナ名義の救難信号は、命令発動時に生命反応が残っていた場合だけ送られる安全装置だった
エナは監獄を落としたのではない。
いつか誰かが、人間を記録から消したまま監獄を捨てようとすることを予測していた。
だから、死亡者の名前で救難信号を残した。
エナが《ケストレル》にいた、十一分間
ハクが回収した記録ユニットには、エナ・ソレルの収容記録が残っていた。
入所時刻、03時13分。
死亡記録、03時26分。
十三分間。
しかし医療記録に遺体はなく、居室割り当てもない。
エナは収容環に入れられていなかった。
中央ハブの移送室に十一分だけ滞在し、別の船へ移されている。
残り二分は、記録の空白だった。
監視映像は削除されていたが、移送室の機械式加圧計には、二人分の宇宙服が入室した記録がある。
二人の移送担当者。
登録名は、ルカ・エイルとノア・エイル。
生年月日は同じ。
遺伝情報も、顔認証もほぼ同一。
双子だった。
ところが当時の身体年齢推定には、六年四か月の差がある。
兄ルカ、三十七歳相当。
弟ノア、三十歳相当。
「同じ日に生まれたのに、片方だけ若い」
ジョウが記録を見る。
ミラは二人の航路履歴を開いた。
ノアは十年間、高速星間便《メルクリウス》の乗員だった。
地球基準で十年。
本人の船内時間では、それより短い。
エナが残した救難装置には、短い音声が一つ付属していた。
「レイへ。私はケストレルで死んでいない」
「私を連れ出したのは、同じ誕生日を持つ二人」
「一人は六年、時間を置いてきた」
「二人のうち、片方が私を売った」
「年齢を信じないで。時計を追って」
音声はそこで終わった。
MICA-13が現在地を検索する。
ルカ・エイルは、地球軌道都市で殺害されていた。
死亡推定時刻、三時間前。
第一発見者は双子の弟ノア。
そしてノアには、犯行時刻、地球から四光時離れた高速船に乗っていたという航路記録があった。
同じ顔。
同じ誕生日。
異なる年齢。
一人の死者と、一人の容疑者。
ナイトジャー号へ、新しい賞金事件が届いた。
現実へ戻す:軌道は「高度」一つでは判断できない
事件の途中で自由落下と噴射の仕組みは確認しました。現実の軌道を判断するときは、「いま何kmにいるか」だけでなく、次の三組をそろえます。
- 現在の位置と速度:同じ高度でも、速度と向きが違えば別の軌道です。
- 噴射する地点と推力方向:遠地点で順行方向へ加速すれば反対側の近地点が上がり、逆行方向へ減速すれば下がります。[参考1]
- その後に受ける外力:低軌道では上層大気の抵抗が積み重なり、太陽活動で密度も変動します。[参考4][参考6]
軌道上で人が浮くのも「重力ゼロ」だからではなく、船と中の人が一緒に自由落下しているからです。[参考2]
CASE 004の226kmは、次の再突入を避けて救助時間を得るための作中目標であり、長期安定を保証する安全高度ではありません。ここを分ければ、「落ち続けているのになぜ周回できるか」と「なぜ低軌道はやがて下がるか」を同時に理解できます。
三百二十九人の救助で確定したこと
区分表示:ナイトジャー号、更生拘置環《ケストレル》、三百二十九人の収容者、四百九十三万五千クレジットの救助契約はSTAR WARRANTの物語です。人工衛星が連続した自由落下として地球を周回すること、低い軌道に残る希薄な大気が軌道エネルギーを奪うこと、進行方向への加速で軌道を変えられることは現実の軌道力学であり、作中の登録改ざんや救助手順とは区分します。末尾のHYPOTHESIS欄では、作中の真相ではなく、観測と実証が続く科学上の問いだけを扱います。
REAL SCIENCE 現実の科学
- 人工衛星は重力から逃れているのではなく、地球へ自由落下し続けている
- 十分な横向き速度があるため、地球の丸い地表を外し続けて周回する
- 地球低軌道では、おおよそ秒速7.8km前後、約90分で一周する場合がある
- 低い円軌道ほど一般に軌道速度は大きく、周期は短い
- 上層大気の抵抗は、低軌道衛星の軌道を少しずつ低下させる
- 逆行方向への推力は軌道エネルギーを減らし、軌道の反対側を低くできる
- 遠地点で順行方向へ推力を加えると、反対側の近地点を上げられる
- 宇宙船のランデブーでは、位置だけでなく速度と軌道面を合わせる必要がある
- 一時的に低い軌道へ入ることで、前方の目標へ追いつける場合がある
STORY 作中設定と未回収の事件
- 西暦2319年の更生拘置環《ケストレル》
- 収容者286名、職員43名と救助賞金制度
- 回転式居住環と四基の軌道修正ポッド
- 中央記録局の無人施設最終降下命令
- MICA-13の旧式認証鍵と観測人口による廃棄命令解除
- エナ・ソレルが仕込んだ死亡者名義の安全装置
- ルカ・エイル、ノア・エイルと高速星間便《メルクリウス》
- MICA-13の鍵で最終降下命令を作った主体と、《ケストレル》を証拠ごと処分する理由
- エナを連れ出した双子と移送先、「片方が私を売った」という言葉の意味
- ルカ殺害の実行者、ノアの航路と身体年齢が示すアリバイ
- MICA-13がエナを守ったのか、別の計画へ移したのか
HYPOTHESIS 観測と実証を待つ科学上の問い
人工衛星の軌道について、よくある疑問
人工衛星は、エンジンをずっと噴射している?
通常、軌道へ入ったあと常時エンジンを噴射し続ける必要はありません。慣性で前へ進み、重力で軌道が曲がるためです。ただし大気抵抗への補正、位置維持、他の物体との衝突回避では軌道修正が必要になる場合があります。[参考1][参考4]
宇宙ステーションでは重力がほとんどない?
地球低軌道でも地球の重力は強く働いています。船と中の人が一緒に自由落下しているため、床に押しつけられず、微小重力状態に見えます。[参考2]
人工衛星の速度が少し落ちると、すぐ地球へ落ちる?
速度変化の大きさと、どの地点でどの方向に変化したかによります。小さな減速なら、まず楕円軌道に変わり、反対側の高度が低下。そこで大気抵抗が増えると、減衰が連鎖的に速くなることがあります。
高い軌道と低い軌道では、どちらが速い?
同じ天体を回る円軌道なら、一般に低い軌道の方が速く、周回周期も短くなります。NASAの地球衛星軌道解説でも、地球へ近い衛星ほど速く動くと説明されています。[参考4]
人工衛星を高くしたいときは、真上へ噴射する?
軌道変更では、単純に地球から外向きへ押すより、進行方向または反対方向への噴射を適切な地点で行う方が効率的です。近地点を上げる場合は、遠地点で進行方向へ加速します。[参考1]
高度226kmなら、もう安全?
CASE 004では、大型救助タグが来るまでの緊急退避軌道として設定しています。現実でも低い地球軌道には大気抵抗があり、物体の形状、質量、姿勢、太陽活動などで軌道寿命は大きく変わります。高度だけを見て「永久に安全」とは判断できません。[参考4]
次の賞金事件
宇宙に行くと時間が遅れるのはなぜ? CASE 005「二人の容疑者、ひとつの誕生日」
ルカ・エイルとノア・エイルは、同じ日に生まれた双子だった。
だが高速星間便から帰還したノアの身体は、地球に残った兄より六年若い。
兄ルカは密室で殺害され、監視映像には弟と同じ顔の人物が映っている。
ノアには、犯行時刻に地球から四光時離れた船に乗っていたという完璧な航路記録がある。
それでもエナ・ソレルは、三年前にこう残していた。
二人のうち、片方が私を売った。
年齢を信じないで。時計を追って。
同じ顔、同じ誕生日、異なる時間を生きた二人。
次の事件では、相対性理論による時間の遅れが、殺人事件のアリバイになります。
SEASON 1 EVIDENCE
この捜査で確定したこと
- エナが双子エイルに引き渡された移送記録
- MICA-13が観測人口329を採用した判断記録
読了記録は、この端末のブラウザーにだけ保存されます。
参考資料
- NASA Science「Basics of Space Flight: Chapter 3 — Gravity & Mechanics」
- NASA「What is Microgravity?」
- ESA「Types of orbits」
- NASA Science「Catalog of Earth Satellite Orbits」
- ESA「Why does it take so long to rendezvous with the ISS?」
- NASA Community Coordinated Modeling Center「Thermosphere Model Assessment and Improvement」