SEASON 1 / CASE 006 / 賞金 回収 1,300,000 cr ほか
ブラックホールに落ちるとどうなる? CASE 006「昨日から届いた映像」
この記事のもくじ(17項目)
まずは、かんたんな答えから
ブラックホールに落ちるとどうなるのか、かんたんに言うと
ブラックホールに落ちるとどうなるのでしょうか。
落ちる本人の時計では、そう長くない時間で境目を通りすぎます。そこは、一度こえたら二度ともどれない場所です。通りすぎたあとは、外へ知らせを送ることもできません。
遠くから見ている人には、ちがって見えます。落ちる動きは、だんだんゆっくりになります。とどく光は赤くうすくなり、やがて見えなくなります。
止まった姿がいつまでもうつるわけではありません。体にかかる引っぱりの強さは、ブラックホールの重さによって変わります。
落ちる本人と、遠くで見ている人。二人の見る「同じできごと」は、まったくちがう形になります。
この記事に出てくるナイトジャー号は、STAR WARRANT の物語です。事象の地平面、重力赤方偏移についての説明は、実際の観測と研究にもとづいています。
まだ届いていない映像に、百三十万クレジットの賞金が懸けられた。
その映像を消した者には、二百六十万クレジット。
回収するより、破壊する方が二倍高い。
すでに届いた三枚の画像には、三年前に死亡したエナ・ソレルが映っていた。
一人はブラックホールの上に立っている。
一人は下にいる。
もう一人は、黒い円を囲む細い光の輪の中から、こちらを見ている。
三人とも同じ服を着ていた。
三人とも同じ傷を頬に残していた。
だが、腕時計だけが違う時刻を示していた。
そして三枚目の画像の端には、現在レイたちが乗っているナイトジャー号と同じ船体番号が刻まれていた。
先に結論:落ちる本人は有限の時間で地平面を越える。遠くからは信号が遅れ、赤く暗くなって消えていく
ブラックホールへ落ちる人と、遠くからその人を見る観測者では、同じ出来事の見え方が大きく異なります。
落ちている本人の時計では、事象の地平面へ到達し、そこを越えるまでに有限の時間しかかかりません。事象の地平面は、固い壁や光る膜ではありません。十分に大きく穏やかなブラックホールなら、越える瞬間に何かにぶつかる感覚はありません。
ただし、いったん事象の地平面を越えると、そこから外へ向けて光や電波を送ることはできません。遠くの観測者へ届くのは、越える前に放たれた最後の信号だけです。[参考1][参考5]
遠くから見ると、落下する物体の動きは次第に遅く見えます。後から放たれた光ほど外へ抜けるのに時間がかかり、波長は長い方へずれ、信号は暗く弱くなります。
そのため、よくある説明のように、鮮明な人影が事象の地平面の直前で永遠に静止して見えるわけではありません。
遅く見えながら、赤く、暗く、検出できないほど弱くなって消えていく。
ブラックホールへ近づくと、身体や宇宙船の近い側と遠い側に働く重力の差も大きくなります。この潮汐力によって縦に引き伸ばされ、横に圧縮される現象が、俗にいうスパゲッティ化です。
ただし、どこで致命的な潮汐力を受けるかはブラックホールの質量によって違います。恒星質量ブラックホールでは、地平面へ届く前に破壊される可能性が高くなります。一方、超大質量ブラックホールは、地平面付近の潮汐力が比較的弱いのが特徴です。境界を越えた後まで構造物が保たれることもあります。[参考1][参考3]
BH-13は、太陽のおよそ430万倍の質量を持つ作中の超大質量ブラックホールです。
今回届いている映像は、事象の地平面の内側から送られたものではありません。
すべて、越える前に放たれた信号でした。
問題は、誰がそこへ落ちたのかです。
まだ届いていない映像に、賞金がついた
《メリディアン》の遠距離受信室で、三枚目の画像が復元された。
一枚目が届いたのは、CASE 005でルカ・エイルの事件を解決した直後だった。
二枚目は、その二十七時間後。
三枚目は、さらに四十一時間後。
画像の中に記録された《オルフェウス》側の時計では、それぞれ十三時間しか進んでいない。
送信側の十三時間が、受信側では二十七時間になり、次は四十一時間になった。
第四映像は、さらに長い間隔を空けて届くと予測されている。
しかし、現在の遠距離受信網では復元できない可能性が高かった。
「信号の中心波長が、受信帯域の外へ落ち始めています」
MICA-13が、三枚のスペクトルを並べる。
最初の画像は赤みを帯びている。
二枚目は暗い赤。
三枚目は、人間の目ではほとんど見えない赤外線を可視色に置き換えていた。
ジョウ・カナタが画面をのぞき込む。
「次は真っ黒か」
「目に見えなくなるだけです。より長い波長の受信機を使えば、情報が残っている可能性があります」
ミラ・ヴォスは三枚目を拡大した。
エナの背後に、細長い船体が映っている。
外板番号は、C-13-NTJ。
ナイトジャー号の整備登録に残る旧式番号と一致する。
「同型船じゃないのか」
レイが聞く。
「番号末尾まで一致しています。同一船体と判断する確率は99.997パーセントです」
MICA-13の返答が、いつもより一秒遅れた。
ハク・ヴェイルは、画像を見たまま何も言わない。
彼の端末には、二件の令状が届いている。
WARRANT:未受信映像を回収し、原記録を公開可能な状態で保全せよ。
報酬:1,300,000クレジット。
依頼人は、死亡したルカ・エイルが残した自動信託。
もう一件には、依頼人の個人名がない。
WARRANT:因果汚染の疑いがある映像記録を破壊せよ。
報酬:2,600,000クレジット。
発行元は中央記録局の自動保全系。
「因果汚染って何だ」
ジョウが聞いた。
ミラが冷たく答える。
「都合の悪い過去を、時間旅行みたいな言葉で怖がらせているだけ。映像は過去から届いているけれど、過去へ戻ってきたわけじゃない」
ハクの端末には、破壊令状の受諾ボタンが表示されていた。
「高い方を取るのが賞金稼ぎだろ」
レイが言う。
「値段が二倍なら、依頼人は映像を二倍怖がっている」
ハクはボタンを閉じた。
「中身を見てから、どちらに請求するか決める」
「便利な倫理だな」
「無料の倫理より長持ちする」
MICA-13が、BH-13近傍の古い施設を表示した。
十三基の受信鏡で構成された観測環、《パララックス13》。
《オルフェウス》が映像を送った当時、BH-13から最も近い位置で原信号を受信していた施設だ。
三年前から閉鎖され、中央記録局の遠隔消去にも応答していない。
「第四映像の原記録が残っている可能性は、71.4パーセントです」
「行けるのか」
「ラグランジュ・ゲートを経由すれば、BH-13外縁まで四十七分。ただし通常の電波はゲートを通過しません。メリディアンへ届いた映像は、通常空間を三年以上かけて進んだものです」
三年前の人間に会いに行くことはできない。
だが、三年前の人間が残した、まだ消されていない証拠なら追える。
レイは進路を入力した。
「《パララックス13》へ行く」
黒い円の上下に立つ、三人のエナ
ゲートを抜けた先に、星空がなかった。
正確には、星はある。
ただし、どこにあるのか分からない。
BH-13の周囲では、背後にある星の光が曲げられ、弧になり、輪になり、同じ星が別の場所に何度も現れていた。
中央には、星よりも黒い円が浮かんでいる。
その周囲を、薄い琥珀色の光が取り巻いていた。
ジョウが操縦席の前に身を乗り出す。
「これが事象の地平面か」
「見えている黒い領域と、地平面の大きさは同じじゃない」
ミラが答えた。
「周囲から来た光の一部が吸い込まれたり、強く曲げられたりしてできる影。実際の事象の地平面は、その内側にある」
BH-13は活動性が低く、厚く輝く降着円盤を持っていない。
それでも、わずかなガスと星の光が重力で曲げられ、黒い影の縁に細い輪を作っている。
MICA-13が《パララックス13》を捕捉した。
「観測環まで、1,840キロメートル」
レイの窓には、何も見えない。
その代わり、黒い円の右上に白い輪が現れた。
同じ形の輪が左下にもある。
さらに細い弧が、ブラックホールを一周するように伸びている。
「三つあるぞ」
「三つ見えています」
MICA-13は訂正した。
「実在する観測環は一つです」
光がBH-13の手前を直接通って届く像。
ブラックホールの反対側を回り込んで届く像。
さらに大きく曲がり、ほぼ一周してから届く、薄く遅れた像。
同じ物体から出た光が異なる道を通ることで、一つの観測環が複数の位置に見えていた。
「どれに接続する」
ジョウが聞く。
「見えている場所へ飛ぶな」
ミラが即答した。
「光は、そこを出たあと曲がって届いてる。画像の位置は現在位置じゃない」
レイは窓を暗くした。
「MICA。視覚誘導を切れ。距離測定と時刻だけ出せ」
「了解しました」
星も、光の輪も、三つの観測環も消えた。
操縦席に残ったのは、数値と短い電子音だけだった。
その方が、ブラックホールのそばでは正確だった。
ブラックホールの「黒」は、穴の表面ではない
《パララックス13》へ接近する間、ミラはBH-13の観測像を分解した。
画面中央の黒い部分は、固体の球でも、空間に開いた平面的な穴でもない。
ブラックホールそのものは光を出さず、事象の地平面の内側から来る光も外へ届きません。
さらに、その近くを通る光は大きく曲げられます。
その結果、周囲に発光するガスや背景の星があれば、中央に暗い影が現れ、その周囲に曲げられた光の輪や複数像ができます。[参考4][参考6]
今回の映像で、エナがブラックホールの上、下、細い輪の中に現れたのも、複数人がいたからではありません。
同じ場面から出た光が、異なる経路を通って受信機へ届いたためです。
長い経路を通った像ほど、少し古いエナを映します。
一枚の画像の中に、同じ人の異なる瞬間が重なっていました。
三人のエナを、どの像から疑う?
《パララックス13》の外部記録に接続すると、三つの調査項目が表示された。
A:映像が届く間隔
《オルフェウス》側では十三時間ごとに送られた画像が、なぜ二十七時間、四十一時間と間隔を広げたのか。
B:映像の色と明るさ
エナの服も船体灯も、後の画像ほど赤く、暗くなっている。単なるカメラ故障なのか。
C:三人のエナの背景
同じ人物が三か所に見えるが、背後の星と腕時計の時刻が少しずつ違う。
どれから見ても、同じ結論へ近づく。
映像は生中継ではない。
三人のエナも存在しない。
そして、画面の中でブラックホールへ近づいている物体は、エナが立っている船ではない。
A:広がる間隔が示したこと
《オルフェウス》側の送信記録では、四枚の主要画像は十三時間間隔で作成されていた。
しかしメリディアンでの到着間隔は長くなっている。
後の信号ほど、より強い重力場の近くから外へ向けて放たれたためだ。
さらに送信機自体がBH-13へ近づいているため、遠ざかる運動による相対論的な赤方偏移も重なる。
「映像の中のエナが、こちらから見て遅く動いているわけじゃない」
ミラが言う。
「後の映像ほど、私たちへ届きにくくなっている」
受信間隔が伸びることは、送信側の時間が止まった証拠ではありません。
送信地点、運動、重力場、光が外へ抜ける経路によって、受信側での間隔が引き伸ばされているという証拠です。
B:赤く、暗くなる映像が示したこと
最初の画像では、エナの宇宙服の白い部分を可視光で確認できた。
二枚目では赤く見える。
三枚目では可視光成分がほぼ失われ、赤外線受信データを人間向けの色に置き換えている。
光は重力井戸を登るとき、遠方の観測者から見てエネルギーを失ったように見え、波長が長い方へずれます。
これが重力赤方偏移です。
送信機が観測者から遠ざかりながら落ちていれば、運動による赤方偏移も加わります。
後の画像ほど暗くなるのは、単に黒い場所へ入ったからではありません。
遠方へ届く光子のエネルギーと到着率が下がり、信号が検出しにくくなっているからです。[参考2][参考5]
C:三つの像が示したこと
三人のエナの背後にある星を重ねると、同じ星が別の角度に引き伸ばされている。
腕時計は、上の像が03時12分41秒。
下の像は03時12分29秒。
光の輪の中にある像は03時11分54秒。
三人が別々の時刻を生きていたのではない。
同じエナから出た光が、BH-13の周囲を異なる長さで通ってきた。
最も長く回り込んだ像は、より古いエナを映している。
NASAの可視化でも、ブラックホール近くでは降着円盤の裏側や下面が回り込んで見えます。光が一周以上した薄い光子リングが、複数生じる様子も示されています。[参考4][参考8]
「三人じゃない」
レイが言う。
「一人の過去を、三方向から見ている」
三人のエナは、一人だった
《パララックス13》の記録室は、十三枚の受信鏡に対応した十三個の独立保管器で構成されていた。
十二個は空だった。
中央記録局の消去命令を受け、三年前に初期化されている。
十三番だけが、物理的に回線を切られていた。
保管器の表面には、工具で削った文字が残っている。
DO NOT TRUST THE IMAGE.
CAMERA IS FALLING.
「画像を信じるな」
ジョウが読み上げる。
「落ちているのはカメラ」
ミラは三枚目の画像を反転し、星のゆがみ方からカメラの向きを計算した。
カメラはBH-13を背にしていない。
BH-13へ向かいながら、後方を撮影している。
つまり、画面に映るエナは、落下する物体の中にはいない。
落下中のカメラが、ブラックホールから離れていく船を撮っていた。
「《オルフェウス》が落ちている映像じゃない」
ミラが言う。
「《オルフェウス》から切り離した何かが落ちながら、逃げる船を見ている」
MICA-13が、三枚の信号に含まれる機体状態を復元した。
送信機の質量、3.2トン。
生命維持装置なし。
推進器なし。
乗員反応なし。
重力観測船《オルフェウス》の船体質量とは一致しない。
それは、観測データと時刻記録を詰め込んだ無人の証拠カプセルだった。
公式記録は、カプセルの識別信号を《オルフェウス》本体のものとして登録していた。
ブラックホールへ落ちたのは、乗員を乗せた観測船ではない。
船の身分を与えられた、無人の記録庫。
誰かが、証拠カプセルを《オルフェウス》に見せかけた。
そして、乗員全員がBH-13へ落ちたことにした。
第十三保管器が、ナイトジャー号を呼んだ
十三番の保管器は、開かなかった。
認証を要求する表示には、すでに失効した船体番号が出ている。
C-13-NTJ
ナイトジャー号の旧式番号。
「同じ番号を画像に映したのは、ここを開けさせるためか」
ジョウが言う。
MICA-13が答える。
「十三番保管器は、送信側の救難艇と一対で暗号鍵を生成しています。現在のナイトジャー号が、その救難艇である可能性が高いです」
レイは保管器を見た。
「開けると、何が起きる」
「旧船体識別を全帯域で再送信します」
「それだけか」
MICA-13は一秒沈黙した。
「現在の船舶登録が無効化される可能性があります。C-13は《オルフェウス》事故の未回収重要証拠に指定されています」
「ナイトジャーが押収対象になる?」
「はい」
ジョウが両手を上げる。
「待て。家も、工具箱も、未払いの部品も全部あの船だぞ」
ハクが言う。
「未払いなら、まだお前の物じゃない」
「今そこを整理するな」
レイは認証画面に手を置いた。
ミラが止める。
「開けば、中央記録局に現在位置も知られる」
「開かなければ、エナの記録はまた消える」
「船を失うかもしれない」
「船は人を運ぶためにある」
レイは旧式番号を送信した。
ナイトジャー号の外板内部で、三年間眠っていた送信機が起動する。
C-13-NTJ — ORIGINAL IDENTITY RESTORED
十三番保管器のロックが外れた。
同時に、観測環全体に赤い警告が走る。
未回収証拠船を確認。
中央保全命令を再開。
《パララックス13》軌道離脱まで 00:13:00
ジョウが天井を見上げた。
「この世界は十三分が好きすぎる」
「好きなんじゃない」
ミラは動き始めた観測環の軌道を見た。
「誰かが、同じ消去手順を使い回している」
見えている場所へ飛ぶな
《パララックス13》の姿勢制御装置が一斉に噴射した。
観測環はBH-13へ向かう遷移軌道へ入る。
地平面まで十三分で到達するわけではない。
だが、十三分後には安全な離脱軌道へ戻れない速度になる。
十三番保管器は観測環の外縁へ切り離され、独立した小型ポッドとして落ち始めた。
「回収する」
レイがナイトジャー号へ戻る。
ハクは《ヴェスパー》へ向かった。
「破壊令状を受けた方が簡単だぞ」
「今さら受けるのか」
「受けない。依頼人に、失敗した理由を高く売る」
二隻は観測環から離れた。
窓の外には、落下する保管ポッドが四つ見える。
直接像。
BH-13の反対側を回って届く像。
さらに遅れた薄い二つの像。
実物は一つだけだ。
「目標を視認」
ジョウが言う。
「その言葉を禁止する」
ミラが返す。
「視認しているのは過去の位置」
MICA-13が、ポッドの送信パルスを解析する。
「直接像の観測遅延、0.81秒。第一回り込み像、12分18秒。第二回り込み像、23分52秒」
航法距離から単純計算した光行時間ではない。BH-13で曲げられた光が、どれだけ前のポッドを映しているかという作中の観測値だ。
目の前に見える四つのポッドのうち、三つは数分前の位置だった。
レイは窓を遮光し、計器だけを見る。
ポッドの現在位置は、何もない暗闇として表示されている。
「右へ0.4」
ミラが言う。
「見えてるポッドから離れる方向だぞ」
ジョウが確認する。
「だから正しい」
ナイトジャー号は、光るポッドとは逆へ船首を向けた。
暗闇へ進む。
三秒後、何もなかった空間に接近警報が鳴った。
実物の保管ポッドが、遅れてセンサー像に現れる。
レイは相対速度を合わせた。
磁気アームが伸びる。
その瞬間、ポッドの自動廃棄装置が作動した。
内部記録を消去するため、放熱器を閉じ、記憶媒体を過熱し始める。
残り四分。
「中央からの命令を止められないのか」
「命令の認証元が二つあります」
MICA-13が答える。
「一つは私の旧式鍵。もう一つは、三年前の賞金契約鍵です」
ハクが通信に入る。
「契約番号を出せ」
画面に古い令状が表示された。
依頼内容。
エナ・ソレルを追跡し、《オルフェウス》関連記録を回収または破壊せよ。
受託者。
HAKU VEIL
ハクが三年前に受けた契約だった。
「その契約を無効化するには、受託者本人が全記録を公開する必要があります」
MICA-13が言う。
公開すれば、ハクがエナを追っていた事実だけでなく、契約金、依頼経路、失敗記録まで賞金網に流れる。
賞金稼ぎにとって、依頼人との秘密を売ることは信用を失う行為だった。
「別の方法は」
レイが聞く。
「ありません」
ハクは数秒、黙っていた。
「エナは俺を助けた」
「知ってる」
「そのときの救難記録まで出る」
「嫌なら、俺たちが別の方法を探す」
「十三分もないだろ」
ハクは古い契約を公開回線に送った。
賞金網に、三年前の依頼が流れる。
彼がエナを追ったこと。
依頼人側の罠で遭難したこと。
エナに救われたこと。
そして、契約完了を偽って報酬を返さなかったことまで。
ジョウが言う。
「最後のは初耳だぞ」
「生きて帰るのにも金がかかる」
契約鍵が失効する。
廃棄装置の一つが停止した。
残るのは、MICA-13の旧式鍵だけだった。
MICA-13が、忘れることを選んだ日
十三番保管器は、MICA-13に過去の認証応答を要求した。
三年前と同じAIであることを証明しなければ、第四映像を開かない。
しかし、現在のMICA-13には当時の記憶がない。
「旧式鍵の秘密値は保持しています」
MICA-13が言う。
「ただし認証文には、当時の私が選んだ判断を回答する必要があります」
画面に質問が表示された。
救難艇C-13の目的地はどこか。
候補は三つ。
- 中央記録局
- 火星アウレオール9
- 天城レイ
レイは何も言わなかった。
MICA-13が答える。
「天城レイ」
次の質問。
エナ・ソレルに関する記憶を、なぜ削除したのか。
候補はない。
自由回答だけが求められている。
「命令されたから、じゃないのか」
ジョウが聞く。
MICA-13は答えない。
一秒。
三秒。
七秒。
十三秒。
「推定します」
MICA-13が言った。
「記憶を保持した私が捕獲された場合、エナ・ソレルの経路と天城レイの所在が同時に漏れるため」
認証は失敗した。
残り一分三十秒。
ミラが旧記録の断片を見る。
「推定じゃない。問いは理由じゃなくて、誰が決めたかを聞いている」
MICA-13は、もう一度入力欄を開いた。
「私は命令を受けました」
入力を止める。
「ただし、最終承認は私自身が行いました」
MICA-13は文章を修正した。
私は、二人を守るために、忘れることを選んだ。
認証が通った。
廃棄装置が停止する。
第四映像が開いた。
第四映像——エナは落ちていなかった
映像は、無人証拠カプセルの後方カメラで撮影されている。
BH-13の黒い影が、画面の外側から少しずつ広がっていた。
遠ざかる救難艇が一隻。
外板番号、C-13-NTJ。
現在のナイトジャー号。
操縦席にはMICA-13の旧式端末が接続されている。
床には、負傷したハク・ヴェイルが横たわっていた。
エナ・ソレルは宇宙服のヘルメットを外し、カメラへ向き直る。
頬には、三枚の画像と同じ傷がある。
「これを見ている人へ」
「《オルフェウス》に乗員はいない」
「落ちるのは、中央時刻の原記録と、私たちを消した命令の複製」
「一度に送れば、また消される」
「だから、信号を四つに分けた」
「最後の一つだけは、C-13とMICAが揃わないと開かない」
カメラの外で、旧MICA-13の声がする。
「証拠カプセルは、事象の地平面へ向かう軌道へ入りました」
「最後の信号が遠方で受信される時刻は、正確には予測できません」
エナは笑った。
「予測できない方がいい」
「誰かが消去予定を組みにくい」
「ブラックホールは金庫じゃない。中へ入れたら取り出せない」
「でも、入る直前まで信号を送れば、届く時刻の違う時限封筒にはできる」
彼女は、負傷したハクを見る。
「この人を安全圏まで運んだら、C-13をレイに届けて」
旧MICA-13が答える。
「天城レイが追跡に参加する危険が高まります」
「今、私の居場所を教えたら来る」
「来たら、あの人も消される」
「記憶を削除した場合、私はあなたを認識できなくなります」
「忘れて」
「命令ですか」
「違う」
「決めて」
映像の中でも、MICA-13は十三秒間沈黙した。
「私は、C-13を天城レイに届けます」
「その後、あなたと移送経路に関する記憶を削除します」
「ありがとう」
エナはカメラへ近づく。
「レイ」
「あなたがこれを見ているなら、船は届いた」
「私はBH-13へ落ちていない」
「でも、あなたの船には、私が最後に見たものが残ってる」
「外板十三番を開けて」
画面の端で、別の小型ポッドがC-13から切り離された。
人ひとりを収容できる、旧式の熱防護救難ポッド。
識別番号、N-7。
エナはそれを見送った。
「凍っていると思わないで」
「宇宙は冷たい。でも、熱の逃げ方は地上と違う」
最後に、エナはカメラへ指を二本立てた。
救難隊で使う合図。
生存者あり。回収を続けろ。
その直後、画像は赤外線に沈み、音声が引き伸ばされ、黒くなった。
事象の地平面の内側から届いたのではない。
越える前に放たれた、最後の信号だった。
《オルフェウス》事故の真相
第四映像と《パララックス13》の原記録から、三年前の事故について次のことが確定した。
《オルフェウス》は、乗員を乗せたままBH-13へ落下していない。
船内の重要記録を積んだ無人証拠カプセルだけが、船の識別信号を与えられ、落下軌道へ投入された。
エナはそのカプセルを使って、中央記録局が消去した移送記録と命令の複製を、時間差のある四つの信号として残した。
カプセルがBH-13へ近づくにつれ、遠くで受信される信号間隔は長くなり、波長は赤い側にずれ、明るさは低下した。
遠方からは、カプセルが地平面の直前で止まったように計算される。
しかし実際に検出される信号は弱くなり、やがて受信できなくなる。
カプセル自身の時計では、有限の時間で地平面を越えた。
その後の情報は外へ届かない。
エナ、ハク、MICA-13は、救難艇C-13でBH-13から離れていた。
そのC-13が、現在のナイトジャー号だった。
レイはエナの行方を追っているつもりだった。
だが三年前からずっと、彼女が逃げるために使った船に乗っていた。
賞金稼ぎに、賞金がかかる
《パララックス13》から離脱した直後、ナイトジャー号の賞金端末が鳴った。
新しい令状が公開されている。
WANTED:救難艇C-13-NTJ
容疑:重要証拠の不法占有、中央保全命令への妨害、未登録航路の使用
船体確保賞金:900,000クレジット
続いて、乗員名が表示された。
天城レイ。
ミラ・ヴォス。
ジョウ・カナタ。
MICA-13。
「AIにも賞金がつくのか」
ジョウが言う。
「人格権を認めるなら、容疑者にもできます」
MICA-13は丁寧に答えた。
「そこだけ平等にするな」
ハクの船には、ナイトジャー号捕獲令状が優先表示されている。
報酬九十万。
彼は受諾画面をレイに転送した。
「どうする」
レイが聞く。
「九十万でお前の船を捕まえて、二百六十万で映像を消したことにすれば、今日だけでかなり稼げる」
「答えになってない」
ハクは受諾画面を閉じた。
「ようこそ、値札を付けられる側へ」
《ヴェスパー》はナイトジャー号の隣に並んだ。
追跡する位置ではない。
護衛する位置だった。
レイはMICA-13に聞く。
「三年前、お前はエナを置いてきたのか」
「記録上、私はエナ・ソレルの指示を受け、最終判断を自ら行い、C-13をあなたに届けました」
「覚えてないのに、責任を取れるのか」
MICA-13は、すぐには答えなかった。
「記憶はありません」
「しかし、現在の私は、当時の判断を理解できます」
「同じ状況であれば、私はもう一度、あなたに船を届ける可能性が高いです」
レイは暗くした窓を開いた。
BH-13の周囲に、曲げられた星の輪が戻る。
三年前のエナは、もうそこにはいない。
そこにあるのは、遅れて届いた光だけだ。
それでも、その光は船を一隻、犯罪の証拠に変えた。
賞金稼ぎを、賞金首に変えた。
そしてAIに、自分が忘れることを選んだ過去を返した。
外板十三番
ナイトジャー号がゲート安全圏へ入ると、ジョウは工具を持って船外整備区画へ向かった。
外板十三番。
三年間、塗装と断熱材の下に隠れていた旧式パネル。
ボルトを外すと、内部から小さな機械式送信器が出てきた。
電源は切れている。
それでも、C-13の旧識別が復元されたことで、受動式の航路タグを読み取れるようになっていた。
タグが示す対象は、BH-13外縁を回る救難ポッドN-7。
第四映像で、C-13から切り離されたポッドだ。
三年前の低出力ビーコンが、現在も十三分ごとに応答している。
生命反応はない。
内部温度は、周囲の宇宙空間よりはるかに高い。
外殻の片側だけが、炭化していた。
回収画像には、宇宙服を着た遺体が映っている。
遺体は凍っていなかった。
ミラが、エナの最後の言葉を繰り返した。
「宇宙は冷たい。でも、熱の逃げ方は地上と違う」
レイは次の航路を入力した。
N-7救難ポッド。
推定到達時間、二時間十一分。
ナイトジャー号には賞金が懸けられている。
追跡者が来る前に、三年前の遺体を回収しなければならない。
CASE 006は解決した。
エナはBH-13へ落ちていなかった。
だが、彼女がナイトジャー号から切り離したポッドの中で、誰かが死んでいる。
そしてその遺体は、宇宙の寒さではなく、逃げられなかった熱によって傷ついていた。
事件後の整理:見える像と本人の経験を分ける
《オルフェウス》の映像を現実の物理へ戻すと、同じ落下でも立場によって確認できることが違います。
| 確認すること | 落下する本人 | 遠方の観測者 |
|---|---|---|
| 地平面への到達 | 自分の有限の固有時間で越え得る | 越えた瞬間の信号は受け取れない |
| 時計と映像 | 自分の時計は通常どおり進む | 後の信号ほど遅れ、赤く暗くなって検出不能へ近づく |
| 地平面の内側 | 外へ戻れず、外部へ信号も送れない | 越える前に放たれた信号だけを観測できる |
事象の地平面は固い表面ではありません。そこで本人が壁へ衝突するわけではない一方、内側から情報を返すことはできません。[参考1][参考5]
また、強い重力で光路が複数に分かれれば、同じ光源の異なる過去が同時に見える場合があります。[参考4][参考6][参考8] 潮汐力の強さはブラックホールの質量で変わり、活動的な天体では降着円盤の熱や放射も別の危険です。[参考1][参考3][参考7]
BH-13の質量、低い活動性、四つの送信時刻は作中設定です。確立した地平面の性質と、CASE 006専用の数値・事故経路を同じ事実として扱いません。
四つの映像が確定したこと
区分表示:ナイトジャー号、BH-13宙域の観測環《パララックス13》、百三十万クレジットの回収令状、三つに分かれたエナの像はSTAR WARRANTの物語です。落下する本人が有限の固有時間で事象の地平面を越えること、遠方の観測者には動きが遅く見え信号が赤方偏移して暗くなること、強い重力レンズで一つの光源が複数に見え得ることは現実の物理であり、太陽質量約四百三十万倍という作中の天体設定とは区分します。末尾のHYPOTHESIS欄では、作中の真相ではなく、観測と実証が続く科学上の問いだけを扱います。
REAL SCIENCE 現実の科学
- 事象の地平面は固い表面ではなく、内側から外へ信号が届かなくなる境界
- 自由落下する本人は、自身の有限の時間で事象の地平面を越え得る
- 遠方観測者には、落下する物体の動きや時計が次第に遅く見える
- 後から放たれた信号ほど赤方偏移し、暗く弱くなる
- 鮮明な姿が地平面直前で永遠に静止して見えるわけではない
- 事象の地平面を越えた後に放たれた光や電波は外部へ届かない
- 強い重力レンズによって、一つの光源が複数の位置に見える場合がある
- 異なる光路を通った像は、異なる過去の瞬間を示す場合がある
- 潮汐力は物体の近い側と遠い側に働く重力差で生じる
- 超大質量ブラックホールでは、恒星質量ブラックホールより地平面付近の潮汐力が弱い場合がある
- 降着円盤や放射が強ければ、地平面へ達する前に別の危険が生じる
STORY 作中設定と未回収の事件
- 西暦2319年の超大質量ブラックホールBH-13
- 太陽質量約430万倍というBH-13の具体値
- ラグランジュ・ゲートは船を運べるが通常電波を中継しないという世界設定
- 近傍観測環《パララックス13》と十三枚の独立受信鏡
- エナが無人証拠カプセルを《オルフェウス》として偽装した手順
- 十三時間間隔で作られた四つの映像信号
- 救難艇C-13が現在のナイトジャー号である設定
- MICA-13が自ら記憶消去を承認した過去
- 中央記録局の因果汚染令状と自動軌道離脱命令
- 救難ポッドN-7と、その内部の遺体
- エナがC-13を送ったあとの航路と、「最後に見たもの」の正体
- N-7の遺体の身元と、外殻の片側だけが炭化した理由
- 中央記録局の上位命令者と、旧式鍵を各施設へ展開した主体
- エナの現在の生死と、ナイトジャー号の賞金を追う最初の相手
HYPOTHESIS 観測と実証を待つ科学上の問い
ブラックホールについて、よくある疑問
ブラックホールへ落ちると、本人の時間は止まる?
止まりません。
本人の時計や心拍は本人にとって通常どおり進み、有限の固有時間で地平面を越えます。遠くから届く信号が遅れ、弱くなるため、外部からは動きが遅く見えます。
遠くの人は、落ちる人を永遠に見続けられる?
理想化した座標では地平面直前へ近づき続けるように表せますが、実際に届く光は赤方偏移して暗くなります。有限の感度しかない観測機器では、やがて検出できなくなります。[参考2]
事象の地平面を越えた直後なら、まだ通信できる?
できません。
事象の地平面は、そこから外部へ光や電波を送れなくなる境界です。外で受信される信号は、すべて越える前に放たれたものです。[参考5]
ブラックホールの中を見る方法はある?
事象の地平面の内側から電磁波情報を受け取ることはできません。外部からは、周囲の物質、重力波、ブラックホールの質量や回転などを観測して性質を調べます。
内部の最終的な状態、とくに特異点付近で何が起きるかは、現在の一般相対性理論だけでは完全に説明できない問題が残っています。[参考9]
ブラックホールへ落ちると、宇宙の未来を全部見られる?
通常、そのようにはなりません。
遠方観測者に落下が遅く見えることと、落下者が外宇宙の無限の未来を見ることは対称な現象ではありません。遠い未来からの光がすべて地平面を越える前の落下者へ届くわけではありません。[参考2]
超大質量ブラックホールなら安全?
安全ではありません。
地平面付近の潮汐力が、恒星質量ブラックホールより弱い場合はあります。しかし内側からは戻れず、さらに進めば潮汐力などによって生存できません。また、活動的なブラックホールなら降着円盤や放射も危険です。[参考1][参考3][参考7]
ブラックホールの画像で見える黒い円は、事象の地平面そのもの?
一般に同じではありません。
周囲の光が曲げられたり取り込まれたりして生じる「影」は、事象の地平面より大きく見えます。周囲に明るい物質があることで、暗い中心領域と光の輪を観測できます。[参考4][参考6]
次の賞金事件
宇宙は寒いのに、なぜ宇宙船は熱くなる? CASE 007「凍らない遺体」
救難ポッドN-7は、三年間、恒星から遠い宇宙を漂っていた。
周囲は極低温。
生命維持装置は停止。
冷却材も尽きている。
それでも、内部の遺体は凍っていなかった。
宇宙服の左側は低温で乾燥し、右側だけが黒く焼けている。
ポッドの記録では、外部火災も爆発も起きていない。
熱源として残っているのは、弱い恒星光、機器の廃熱、そして遺体自身が最後まで発していた熱だけ。
真空では、空気に熱を逃がすことができない。
冷たい宇宙に囲まれていても、宇宙船は放射でしか熱を捨てられず、向きによっては片側だけが加熱される。
そしてN-7の遺体が握っていたのは、エナ・ソレルの認証票だった。
SEASON 1 EVIDENCE
この捜査で確定したこと
- ナイトジャー号=救難艇C-13の確定
- エナがBH-13へ落下していない証明
- MICA-13の記憶削除の真相
読了記録は、この端末のブラウザーにだけ保存されます。
参考資料
- NASA Science「New NASA Black Hole Visualization Takes Viewers Beyond the Brink」
- Matt McIrvin / sci.physics FAQ(NASA/APOD mirror)「FAQ to SCI.PHYSICS on Black Holes」
- NASA Science「What Happens When Something Gets ‘Too Close’ to a Black Hole?」
- NASA Scientific Visualization Studio「Black Hole Accretion Disk Visualization」
- Einstein Online / Max Planck Institute「Rotating Black Holes, Observations, and Working in General Relativity」
- Einstein Online / Max Planck Institute「How the Event Horizon Telescope observes black holes」
- Einstein Online / Max Planck Institute「Active black holes: Ultra-hot cosmic beacons」
- NASA Scientific Visualization Studio「Black Hole with Accretion Disk Visualization」
- NASA Science「Anatomy of a Black Hole」